国宝指定に向けてWikiより
昭和30年代に、国宝指定に向けての運動や陳情があったが国宝指定には至らなかった。松浦正敬が松江城の国宝指定も公約に掲げて松江市長(2期目)に当選した2009年(平成21年)以降は、「松江城調査研究委員会」や「松江城を国宝にする市民の会」を立ち上げるなど、国宝指定に向けての調査・運動が活発化していた。懸賞金を掛けて史料を探していたが平成24年に松江神社で国宝指定に重要な、築城時期を特定できる「慶長拾六年正月吉祥日」などと書かれた祈祷札が見つかった。2015年(平成27年)5月15日、文化審議会が松江城天守の国宝指定について文部科学大臣に答申。同年7月8日の『官報』告示をもって国宝に指定された。
↑この濠は搦め手(裏側)にあたる。下の絵図で示せば、緑の広い区域にあたる。
築城
- 1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、隠岐・出雲24万石を得て月山富田城に入城し、松江藩が成立。月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、運送などに有利な宍道湖と中海を結ぶ太田川の近く、末次城跡を城地の候補とした。
- 1607年(慶長12年) 末次城のあった亀田山に築城を開始。
- 1611年(慶長16年) 正月には松江城は落成していた(堀尾吉晴は完成目前で急死しているというのが通説だったが、この年の6月に亡くなっているため、通説は誤り)。
- 1633年(寛永10年) 堀尾忠晴没、嗣子なく堀尾氏は3代で改易となった。
- 1634年(寛永11年) 京極忠高が若狭国小浜藩(若狭・越前国敦賀郡)より出雲・隠岐両国26万石で入封。三の丸を造営し、ここに松江城の全容が完成した。
- 1637年(寛永14年) 忠高が嗣子なく没し、京極家宗家は一時廃絶(後に他国で再興される)。
- 1638年(寛永15年) 信濃国松本藩より松平直政が出雲18万6千石で入封。以後、明治維新まで続いた。
近現代
- 1871年(明治4年):廃藩置県により、廃城となる。
- 1873年(明治8年):廃城令が公布され、天守を除く建造物は4円から5円(当時の価格)で払い下げられ、全て撤去された。天守も180円で売却されることとなったが、出雲郡の豪農の勝部本右衛門や元藩士の高木権八が同額の金を国に納める形で買い戻され、保存されることとなる。
乾(いぬい、戌猪・北西)櫓跡
〇国宝松江城。北西方向(裏側)から見ている。
西側(真横)
南西から見ている
南側(正面)から見ている
↓本丸から二の丸に下りる。一の門を潜る
二の門跡
↓二の丸下の段と呼ばれる平地。藩士の扶持米を保管する倉庫群等があった。
ここが大手口だろう
「国宝・松江城」
堀尾吉春公銅像
内濠
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