吉田松陰誕生地近くの萩市大字椿東字椎原[1]にあり、元禄4年(1691年)萩藩3代藩主毛利吉就が建立した。吉就は若くして黄檗宗に帰依して、本山黄檗万福寺に範を求めて広壮な堂を建立。萩出身の高僧・慧極道明禅師を開山に迎えた。吉就の死後、ここを墓所とし毛利氏の菩提寺となった。
中国の明時代の末から清時代の末にかけての黄檗伽藍様式。元禄6年(1693年)頃建立の総門、元禄7年(1694年)頃建立の鐘楼、元禄11年(1698年)建立の大雄宝殿、文化9年(1812年)建立の三門の4棟の建造物が重要文化財に指定されている。
↓重文・総門
↓重文・三門(楼門)
↓重文・大雄寶殿(本堂)
↓重文・鐘楼
↓方丈元治甲子殉難烈士墓所
反対派により萩野山獄で処刑された宍戸真澂、山田亦介、前田孫右衛門、竹内正兵衛(享年46)、毛利登人、松島剛蔵、中村九郎、佐久間左兵衛(享年32)、大和弥八郎、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎(享年28)ら十一烈士。俗論党のために萩で自刃を命ぜられた清水清太郎。幕府の萩征伐の起因の責任を感じて山口で自刃した周布政之助。これら身をもって難に殉じた藩士のために明治29年(1896年)に建てられた慰霊墓所。
毛利氏廟所 萩藩主3代(萩での藩主の代数は輝元を初代とせず、秀就を初代として数えている)毛利吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の奇数代の藩主の5基と、それぞれの夫人の合計10基の他、側室など近親者20余基がある。また、重臣諸家の献上した石灯籠500基が並んでいる。国の史跡に指定されている。なお初代秀就と偶数代の藩主は萩市の大照院に廟所がある。秀就の父・輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある。
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