2019年9月24日火曜日

★奥の細道紀行 第101章 松嶋「雄島」

奥の細道》《雄島が磯は地つゞきて(★註1)海に出たる島也。①雲居(うんご)禅師の別室の跡坐禅石など有り。将(はた)、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打ちけぶりたる④草の庵、閑かに住みなし、いかなる人とはしられずながら、先づなつかしく立寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上(こうしょう)に帰りて⑥宿を求むれば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ
松島や鶴に身をかれほととぎす 曾良
(松島の景色にほととぎすの風姿は似合わない、鶴に身を借れ)
予は口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂(江戸における芭蕉の雅友)松島の詩あり、原安適(江戸の歌人)松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。且、杉風(さんぷう)・濁子(じょくし)が発句あり。》
曾良随行日記』 『九日 ‥‥。茶など呑て瑞岩寺、不残見物。開山、法身和尚(真壁兵四良)。中興、雲居。法身の最明寺殿被宿岩窟有。無相禅窟と額有。それより雄嶋(所には御嶋と書)所々を見る(とみ山も見ゆる)(★註2 芭蕉の記述では先ず瑞巌寺に参詣しそれから雄嶋を見学したことになっているが、実際は曾良の日記通り先ず雄島を見学しそれから瑞巌寺に参詣したと思われる
)御嶋、①雲居の坐禅堂。その南に②寧一山の碑之文。北に④庵有。道心者住す。帰而後、⑤八幡社五大堂を見。慈覚の作。⑥松島に宿す。久之助と云。加衛門状添』
★註1 雄島に架かる朱塗りの渡月橋。磯と地続きでは決してない。芭蕉当時には地続きだったという説は全くない。



 橋を渡る。そこは雄島の中央部。
真珠稲荷がある
①雄島の中央やや南方に坐禅堂がある。ここが「雲居禅師の坐禅堂」跡か。

②南端の「頼賢の碑」に向かう。「寧一山の碑

 六角堂の中に「頼賢の碑・重文」が収納されている。左の建物は東屋。

 ↑「重文 奥州御島・頼賢の碑
この碑は、徳治2年(1307)に松島雄島妙覚庵主頼賢の徳行を後世に伝えようと弟子30余人が雄島の南端に建てたものである。頼賢の碑は、中世奥州三古碑の一つと言われるものであり、‥‥その右に「奥州御島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行實銘井」と楷書で記してある。‥‥。碑文は、松島の歴史を物語るだけでなく、鎌倉建長寺の10世で、唐僧の一山一寧の撰ならびに書になる草書の碑としても有名である」 碑の全容は堂外からは写せない。
「奥州」
 ↓「御島」
  ↓「妙覚」
 ↓「頼賢」
 ↓「庵主行‥」
↓松吟庵跡
  ④「妙覚庵敷き」に行く。
妙覚庵敷き


 見仏堂跡 見仏堂は、見仏上人が法華経六万巻を読誦した場所とされるところで、そのお堂は妙覚庵とも呼ばれた。かつては「奥ノ院」と呼ばれたが、今は礎石すら残っていない。見仏上人は「月まつしまの聖」「空の聖》などとも呼ばれ、法華経六万巻を読誦して法力を身に付け、鬼神を使い、奇蹟を起こしたと伝えられる。西行仮託の仏教説話集「撰集抄」には、「遠距離空間の瞬間移動」ともとれる上人の超能力ぶりが語られている。


 薬師如来坐像・石像。見仏堂跡の崖の上、妙覚庵跡の奥に座っている。

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