2019年9月13日金曜日

★奥の細道紀行 第95章 塩竈市②「文治の燈籠」

〇文治の燈籠は、塩竈神社境内、右宮左宮合併殿と別宮との間にある。


 ↑碑文の「文治37月」といえば、源頼朝と義経の軋轢が奥州藤原氏と鎌倉幕府との対立まで発展し義経引渡しの宣旨院宣が平泉に下された頃。義経の庇護者秀衡が急逝したのはその文治3年(1187)のこと。その後二男泰衡は、父秀衡の遺言に従い平泉に逃れていた義経を一旦は庇護するが、頼朝の圧迫に 屈し義経を急襲し自刃に追い込んだ。「和泉三郎忠衡」とは、秀衡の三男「忠衡」のこと。忠衡は父の意志を継いで最後まで義経を擁護し遂には平泉「泉ヶ城」に立て籠もった末に兄泰衡に攻め滅ぼされた。この奥州藤原氏の内紛に乗じて頼朝は大軍を率いて奥州に出馬し泰衡を滅亡させた。忠衡による文治3年の燈籠寄進は、平泉の安寧と義経の無事を祈願してのことだったろう。芭蕉は忠衡のことを《五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)勇義忠孝の士也。佳命(かめい)今に至りてしたはず(慕わず)といふ事なし。誠(まことに)人能(よく)道を勤(つとめ)、義を守(まもる)べし。名もまた是にしたがふと云(いえ)り》と称えている。  
 ↓「塩竈神社博物館」に入ったら、芭蕉が文治の燈籠に面会している場面の掛け軸があった。


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