2009-05-29 10:53:08《本望は「流浪の画家」、の隆くん》←これでは、僕が何者でどうしてブログを立ち上げることになったのかさっぱり分からん。ここに、過去に僕が書いた文章で手始めに引用するのに丁度恰好のがあるので、それを掲載する。
平成8年3月23日発行『金沢弁護士会百年史』所収
峠 越 え
『新年を迎えた。50歳になる。人生の峠に立った。山の向こうにあったあの世が視野に入った。振り返れば死期との間合を測りながら生きていこうと決意したのは40歳。それから10年。この間多方面に趣味の手を拡げた(日弁連機関紙『自由と正義』43巻7号所収『能登の師匠伝』参照)。好きなことをする――これぞ悔いなき生き方と思ったから。もっともそうしたらとにかく疲れた。下手をすると疲弊して何をしたのか分からずじまいになる恐れがある。そこで今後は一つだけ最も性に合った趣味を別格にして取り組む。そして最後にはその一つの道の道楽者と呆れられて死ぬ――これが私の理想的人生。別格の趣味は美術。目下油絵。故《八野田博》先生指導の例会で3年間週1回描き続けた(先生は晩成型で教員退職後日展特選を重ねてさあこれからという一昨年に他界)。先生亡き後もこのペースは不変だったが、昨年(平成6年)飛躍。まず3月にそれまで私の土曜日(週休)を毎週拘束してきた七尾短大講師職を強引に辞して週休二日を確保。更に四輪駆動の普通バン型車を用意。そして4月から週末の気象情報を頼りに野宿しながら写生遠征する夢の日々が始まった。昨年の版図は――白馬・妙高、安曇野、木曾、蓼科、伊那谷等。
道楽志願は右脳の要求――この点説明を要する。左右両脳のうち、左脳は分析的論理的概念的で合理的、右脳は総合的直感的創造的で非合理的。芸術は右脳の得意分野。右脳は情趣豊かな人生を約束。だが右脳は言語をもたない。感じているのに唖黙って控えている(左脳はおしゃべりで出しゃばり)。この悲劇的な右脳の存在を意識しだしたのは40歳。それ以前私の人生を苦渋に満ちさせていたのも実はこの右脳だったが、そうと気付かなかった。英語数学(左脳)偏重の学校教育に対して抵抗し続けた苦痛的青春時代。無味な法律の勉強や実務に耐えてきた虚無的青壮年時代。どの時代も常に自分らしさを見失い又自分らしさを押し殺して苦しかった。苦しさの根源は何か――それを、青春青年時代には自己の怠惰な心に求めてひたすら勉強により克服せんとした。無理だった。40歳で気付いた――自分らしさを宿しながら唖黙って鎮座している右脳の存在に。気付いた時から後半生が始まった――前半生の苦しさは、左脳偏重に対する右脳の無言の反抗の故だった。40代は自分らしさを取り戻す、そのための試行錯誤の日々となった――確かに少年時代、私は創造的に生きて自分らしかった。愚直に好きなことを色々やり、その結果右脳と美術(絵画)の相性を信ずるに至った。
油絵修行で身に付いたこと。先ず『観察』する態度。観察は、視覚情報を先取りする左脳からその管理権を右脳に移譲させるために必要な手続き。観察――美しさや面白さの本質根源に迫ろうとして凝っと見つめることなどは、ただ見て概念を充てはめれば事足れりとする左脳の性に合わない(観察すると左脳はギブアップ)。そして観察修行を積むと初めから右脳的見方が可能となる。但し右脳的見方をするには、関心興味(美しい面白いと思う心)をもって『観る』ことが不可欠(関心興味なしにいくら見ても左脳の支配を脱せられず、描く絵は概念的左脳的でつまらない)。普段から情趣豊かに自分らしく生きようと努めることが大切な所以(絵は人なり)。次に右脳との付き合い方――『感じ』(感受性)を大切にすること(概念・言語は絵画では有害無益)。感じ――言葉で表すと曖昧で頼りないが実はこれほど確実なものはない(デカルトは、我『感ずる』故に我在り、と言うべきだった)。感じるとき――そこに芸術心があり、感じを表現しようとするとき――そこに芸術がある。感じられれば心眼が開けている。そして感じる機能は修練するほどに無窮(宇宙の探究に似る)。最後に右脳との付き合いで注意すべきは、時を忘れること。右脳には時間の観念が全くない。気が付いたらあの世に居たということになりかねない。自戒せねば。
以上が50歳を迎える年の正月に書いた文章。その後還暦を迎え還暦から2年経過した今もこの考えに全然変わりはない。還暦を迎えた日、僕は誓った。末娘が大学を卒業し国家試験に合格したら(僕は3人の娘の父f(-_-;))、本格的に絵を描きに走り出そう。春(花の季節)には三月南九州を振り出しに花を追って六月北海道まで北上し、秋(紅葉の季節)には九月北海道を振り出しに紅葉を追って十二月南九州まで南下する。そして夏休みは北海道で避暑をして過ごし、冬休みは沖縄南九州で暖かく過ごす(僕は北陸・雪国で生まれ育ったが、寒いのが苦手)。夏と冬の休養中は執筆活動に勤しむ。執筆のための修学も40代からしてきたつもり。こんな「流浪の画家」を5、6年間やって70歳辺りで死ぬ、多分癌で(父は癌死、享年67歳)。これが僕の理想的な人生の締め括り方。
『峠越え』執筆後の特筆事項を列挙すると、
先ず50代に《奥田憲三》先生 (一水会常任委員、風景画の大家)に私淑し風景画とは何かを感得する機会を得た。僕が40代にに教わった《八野田博》先生は人物画の大家だったから、僕は人物画と風景画の両域で本物の画家に接したことになる。「流浪の画家」となって本望を遂げて死ぬための基盤整備は好運に着々と進んだ。奥田憲三先生との出会いは劇的運命的だった。後日どうしても書く日が来るだろう。
次に50代にパステル画の世界に足を踏み入れた。肖像画にはパステル絵具が素敵に合う。掲載したのはパステル自画像。
還暦を迎えた日の深夜、寝つけぬままにムクッと起きて描いた。還暦記念に自画像を残そうと思った。深夜に独り鏡を睨んでいる姿は、我ながら不気味だった。
次回は、今年の四月下旬~五月上旬のGWを股に掛けて二週間ぶち抜きで愈々「流浪の画家」の真似事を実行したお話の予定。
平成8年3月23日発行『金沢弁護士会百年史』所収
峠 越 え
『新年を迎えた。50歳になる。人生の峠に立った。山の向こうにあったあの世が視野に入った。振り返れば死期との間合を測りながら生きていこうと決意したのは40歳。それから10年。この間多方面に趣味の手を拡げた(日弁連機関紙『自由と正義』43巻7号所収『能登の師匠伝』参照)。好きなことをする――これぞ悔いなき生き方と思ったから。もっともそうしたらとにかく疲れた。下手をすると疲弊して何をしたのか分からずじまいになる恐れがある。そこで今後は一つだけ最も性に合った趣味を別格にして取り組む。そして最後にはその一つの道の道楽者と呆れられて死ぬ――これが私の理想的人生。別格の趣味は美術。目下油絵。故《八野田博》先生指導の例会で3年間週1回描き続けた(先生は晩成型で教員退職後日展特選を重ねてさあこれからという一昨年に他界)。先生亡き後もこのペースは不変だったが、昨年(平成6年)飛躍。まず3月にそれまで私の土曜日(週休)を毎週拘束してきた七尾短大講師職を強引に辞して週休二日を確保。更に四輪駆動の普通バン型車を用意。そして4月から週末の気象情報を頼りに野宿しながら写生遠征する夢の日々が始まった。昨年の版図は――白馬・妙高、安曇野、木曾、蓼科、伊那谷等。
道楽志願は右脳の要求――この点説明を要する。左右両脳のうち、左脳は分析的論理的概念的で合理的、右脳は総合的直感的創造的で非合理的。芸術は右脳の得意分野。右脳は情趣豊かな人生を約束。だが右脳は言語をもたない。感じているのに唖黙って控えている(左脳はおしゃべりで出しゃばり)。この悲劇的な右脳の存在を意識しだしたのは40歳。それ以前私の人生を苦渋に満ちさせていたのも実はこの右脳だったが、そうと気付かなかった。英語数学(左脳)偏重の学校教育に対して抵抗し続けた苦痛的青春時代。無味な法律の勉強や実務に耐えてきた虚無的青壮年時代。どの時代も常に自分らしさを見失い又自分らしさを押し殺して苦しかった。苦しさの根源は何か――それを、青春青年時代には自己の怠惰な心に求めてひたすら勉強により克服せんとした。無理だった。40歳で気付いた――自分らしさを宿しながら唖黙って鎮座している右脳の存在に。気付いた時から後半生が始まった――前半生の苦しさは、左脳偏重に対する右脳の無言の反抗の故だった。40代は自分らしさを取り戻す、そのための試行錯誤の日々となった――確かに少年時代、私は創造的に生きて自分らしかった。愚直に好きなことを色々やり、その結果右脳と美術(絵画)の相性を信ずるに至った。
油絵修行で身に付いたこと。先ず『観察』する態度。観察は、視覚情報を先取りする左脳からその管理権を右脳に移譲させるために必要な手続き。観察――美しさや面白さの本質根源に迫ろうとして凝っと見つめることなどは、ただ見て概念を充てはめれば事足れりとする左脳の性に合わない(観察すると左脳はギブアップ)。そして観察修行を積むと初めから右脳的見方が可能となる。但し右脳的見方をするには、関心興味(美しい面白いと思う心)をもって『観る』ことが不可欠(関心興味なしにいくら見ても左脳の支配を脱せられず、描く絵は概念的左脳的でつまらない)。普段から情趣豊かに自分らしく生きようと努めることが大切な所以(絵は人なり)。次に右脳との付き合い方――『感じ』(感受性)を大切にすること(概念・言語は絵画では有害無益)。感じ――言葉で表すと曖昧で頼りないが実はこれほど確実なものはない(デカルトは、我『感ずる』故に我在り、と言うべきだった)。感じるとき――そこに芸術心があり、感じを表現しようとするとき――そこに芸術がある。感じられれば心眼が開けている。そして感じる機能は修練するほどに無窮(宇宙の探究に似る)。最後に右脳との付き合いで注意すべきは、時を忘れること。右脳には時間の観念が全くない。気が付いたらあの世に居たということになりかねない。自戒せねば。
以上が50歳を迎える年の正月に書いた文章。その後還暦を迎え還暦から2年経過した今もこの考えに全然変わりはない。還暦を迎えた日、僕は誓った。末娘が大学を卒業し国家試験に合格したら(僕は3人の娘の父f(-_-;))、本格的に絵を描きに走り出そう。春(花の季節)には三月南九州を振り出しに花を追って六月北海道まで北上し、秋(紅葉の季節)には九月北海道を振り出しに紅葉を追って十二月南九州まで南下する。そして夏休みは北海道で避暑をして過ごし、冬休みは沖縄南九州で暖かく過ごす(僕は北陸・雪国で生まれ育ったが、寒いのが苦手)。夏と冬の休養中は執筆活動に勤しむ。執筆のための修学も40代からしてきたつもり。こんな「流浪の画家」を5、6年間やって70歳辺りで死ぬ、多分癌で(父は癌死、享年67歳)。これが僕の理想的な人生の締め括り方。
『峠越え』執筆後の特筆事項を列挙すると、
先ず50代に《奥田憲三》先生 (一水会常任委員、風景画の大家)に私淑し風景画とは何かを感得する機会を得た。僕が40代にに教わった《八野田博》先生は人物画の大家だったから、僕は人物画と風景画の両域で本物の画家に接したことになる。「流浪の画家」となって本望を遂げて死ぬための基盤整備は好運に着々と進んだ。奥田憲三先生との出会いは劇的運命的だった。後日どうしても書く日が来るだろう。
次に50代にパステル画の世界に足を踏み入れた。肖像画にはパステル絵具が素敵に合う。掲載したのはパステル自画像。
次回は、今年の四月下旬~五月上旬のGWを股に掛けて二週間ぶち抜きで愈々「流浪の画家」の真似事を実行したお話の予定。
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