2009年6月20日土曜日

吉野山の千本桜を運好く鑑賞、奈良公園で熱中症気味ながら興福寺・東大寺でスケッチ張を開いた

2009年4月11日(土)
今日も一日遊び回った。色々なことがあって疲れ果てたf(-_-;)頑張って遊ぶと疲れるなぁ。朝やっぱり大和路を南に辿った。奈良・天理市街を素通りし奈良盆地の南端「明日香」に行った。三輪山、石舞台古墳など子供達が小さかった頃に家族旅行で訪れた懐かしい景色遺跡を目にしながら丘陵を縫う旧道に入った。そこは奥明日香。古代的な風情が今も色濃く残っている山里。絵になる風景がある。逆光もまた好い




奥明日香から一車線あるやなしやの山道を辿り吉野に向かった。この山越え道は凄く細いクネクネ道で運転初心者なら竦んで進めないだろう。高取山を越えたら下りは普通の林道で一気に吉野町に出た。吉野町は紀ノ川中流の谷間に位置する。ここに来たのは朝早いうちに古来歌に詠まれた吉野山の千本桜を鑑賞しようという魂胆。吉野山は正に花の真っ盛り。しかし交通規制が掛けられて訳が分らない間にソマ道のような林道に導かれ寂しい裏山・山奥へ走らされた。人っ子一人歩いていない。後続にタクシーが一台付いて来ていたのが気安め。とうとう山頂に来て道が行き詰まったら「吉野水分(よしのみくまり)神社」(立派な造営)があって、驚いたことにこんな山頂まで参詣者・登山者・ハイカーが歩行者天国然として上って来る。自動車一台がやっと通れる細道を人々が蟻の行列のように行き交う。その蟻の列にセレナを割り込ませ掻き分けて下る破目に。人々は「アッ自動車や」と驚いて道を開けてくれる。恐縮至極。サイドミラーが人の背中に当たって閉じてしまったりして…f(-_-;)参ったのは、九時になったら警察が登山道備付のスピーカーで「これから歩行者天国になりますから周回路に入っている車は直ちに出るように」とアナウンスしだしたこと(゜o゜)時刻は当に九時だったので焦った(*_*;上りは不安、下りは恐縮焦燥でカメラを構える余裕などなかった。けれども下りがけに僕はこの目に花盛りの吉野山の全景をしっかり収めてきた(*^^)v「奥千本」「中千本」「下千本」全部を見れた。バス利用のハイカーや駐車場利用の観光客ではこうはゆかなかった。結局僕は訳が分らんうちに好運に恵まれていたんだなぁ!(^^)!

午前九時半頃には下界でコンビニ仕入れの朝食にありついていた。その頃には吉野山に入る車の大渋滞が対向車線で始まっていた。奈良盆地を目指したが今度は山路を避けて国道を選んだ。その国道の対向車線で警察がspeed取り締まりをしていた。オウやっとるなと思ったら何とこっちの車線でも張っていた。気が付いたときは既に遅しで万事休す。ところが赤棒赤旗で制止されずに無事通過。そんなことって、そんなことって…今もって信じられないけれど、時速にして1km/h足らずの微差が運を別けたと思うf(^_^;)因みに二女明子の車からETC装置と共に外してセレナに取り付けたレーダー探知機は神経質でうるさ過ぎるので電源を抜いてあったf(~_~;)。北上中に壺坂寺に寄ってみようと山路を辿ったんだけれど駐車場の無人装置が気に入らなかったので引き返した。奈良市街は素通りするつもりだったんだけれど西大寺は左折の表示を見て気が変わった。東の東大寺に対して西に建立された大寺なんだがそれが現況どうなっているか見たくなった。左折して西に向かった。しばらく行くと今度は法華寺の表示。「国宝十一面観音の寺」と案内してあったのでまたまた気が変わった。国宝の十一面観音は全国に七つほどしかないんだがその一つが法華寺にあることは知っていた。僕が十一面観音に関心を持つようになったのは北近江・高月町で国宝十一面観音に出会ってから。その国宝は「渡岸寺(どうがんじ)」という無名の寺にある。村人によって守護されてきた。平安時代の作品というが作者名は伝わっていない。織田信長が小谷城を攻めたとき、村人達はこの観音様が戦火にかかることを恐れて布にくるみ地中に埋めて守った。この十一面観音の気品ある美しさといったら比類がない。村人達も見ただけで只の観音様でないことが分っていたのだろう、懸命に護持してきた。本体には傷一つない。平安時代、名も伝わらない仏師がこのような芸術作品を作ったとは…人というものの無限の可能性には感動させられる。僕は既にこの観音様に再会を果たしている。オッと話は法華寺の十一面観音のことだった。受付の爺さんの説明では拝観料金が四体系に分れていて一番安いのは庭園観賞だけ、次は…。僕は端的に質問した、「十一面観音は何処に居るんですか」。爺さんの答え、「いつもは本堂に居られます」「今は御本体は国立美術館にお出掛けです」「代わりのレプリカが展示されているのですがあいにくそれも芸大に行っています」「本堂には今十一面観音様の掛軸が掛けられています」。僕は勿論回れ右をした。そうそう話の本筋は西大寺だった。西大寺には結局行き着けなかった。現存しているかどうかも分らなかった。それよりも思いがけない大収穫は西大寺に行く途中で偶然見た平城京跡の発掘修復現場。平城京跡の発掘調査と往時の復元工事については新聞報道で知っていたが、読んで頭に描いていた規模と現地で見る規模とはスケールが違っていた(゜o゜)/これから建物などを復元するらしいけれど凄いことになると思われる。


この平城京跡の真ん中を通って市街地に入ったときまたまた気が変わった。直進すれば奈良公園という案内を見て。ヨーシっ!今日はこれから奈良公園で興福寺の五重塔や東大寺二月堂の裏手の土塀の続く坂道をパステル画に描こうと思い立った。駐車場に入って1500円前払いした。一日分で追加料金なしだそう。時刻は一時過ぎ。パステル画を二枚描けば五時過ぎかなぁと推測。夏日で暑い。車中泊を念頭に冬着で出掛けてきたので発汗もままならず歩くのがしんどい。奈良公園・興福寺に辿り着いた。スケッチブックを開き、五重塔を直射日光を浴びながらパステルで描いた。

体熱が籠り、花粉症状も酷くて鼻水が垂れるわ目が痒いわですっかり消耗。そう言えば昼食も摂っていなかったので公園内の食堂で親子丼700円を食して人心地をついた。
それから東大寺に回り、南大門と仁王様・大仏殿・二月堂・三月堂・四月堂を鑑賞した。









そして二月堂に至る土塀道を描き始めたがもう気力の限界に近かった。


逆光の大仏殿。

それにこの風景は油絵向きでソフトパステルでは旨くいきそうもなかった。陽も大分傾いたし、僕は中途で投げ出して帰路に着いた。
この後、京奈和道路・京滋バイパスを伝い名神高速に入って直ぐの草津PAに到着。ここで晩食にカツ丼を食った。今夜はここで野宿。明日の予定が未だ立っていないので、この中途半端な位置取りが丁度好いかも。あぁ疲れたァ(>_<) 今日は四月なのに直射日光がきつくそれは暑い日となった。興福寺・五重塔の前で観光客の雑踏にまみれ汗を体中に滲ませながら一心に塔描いたことは、僕の生涯の思い出になる。きっと懐かしく思い出す。 2009年4月12日(日)  朝七時、草津PAは人の動きがもう結構ある。今日何処へ行って絵を描くか、未だ決まってない。黄砂が舞って遠望が利かないので甲信の山の絵には執着がない。やっぱり湖沼の風景か。海っていう選択もある。僕の旅先の食生活は栄養のバランスが悪い。蛋白質と脂質が少ない。野菜はジュースだけ。「ご当地かりんとう」を見つけては買い込み運転中や寝る前についつい手を出す。流浪無宿人生活を実際にしてみると問題点が多い。第一は外食買い食いだけの食生活。健康に直結するだけによくよく考えてみなければ。第二に銭湯が意外に少なくなっている。子供達が小さかったとき家族旅行をして夕方になったら見知らぬ街で銭湯探しをして皆で風呂に浸かったのはもう20年以上も前の話なんだなぁ。生き残っている銭湯も僕が走り抜けるような幹線道路には面していない。風呂付ホテルに泊まろうかとの誘惑に駆られる。第三に着るものも問題。今回僕は着替えも用意せずに飛び出してきたから論外だが、衣類の着替えは清潔だけの問題でない、春秋の写生シーズンは気圧配置・風向きの変化で寒署が極端に切り変わる。昨日の奈良公園では熱中症に罹りそうだった。着替え衣類の用意は大事。 12:12 結局何となくまた余呉湖に舞い戻ってしまったが、風があり湖面がさざ波立って風景の反映というものが全然ない。前景一面に単なるブルーグレイがあるだけのこと。がっかりしたら酷く疲れを覚えたのでひと眠りすることにf(^_^;)そして目覚めたら正午。寝過ぎて頭がボーっとしている。体中汗だらけ、暑いッ!今更何処を目指そうと今日はもう一日絵を描かずに過ごすことが確定したようなもの。これじゃぁ寝ぼけた分、観光客以下 (`´)(/_;) 18:00七尾に到着、「ちびまる子」にぎりぎり間に合ったf(^_^;)。 2009年4月13日(月)  今日も絵を描いてきた。午前10時に出かけて、小松市の木場潟から流れ出す川の畔で描いた。構図に失敗し絵にならなかった。川辺の風景(水と樹と木陰)を描くには繊細な神経が要る。

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