『〇十二日 天気快晴。能生ヲ立つ。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡れ、川原暫し干ス。午ノ剋(うまのこく・正午)、糸魚川ニ着き、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。大聖寺ソセツ師言伝え有り。母義、無事ニ下着き、此の地平安ノ由。申ノ中剋(さるのちゅうこく・午後四時過ぎ)、市振に着き、宿。
〇十三日 市振立つ。虹立つ。玉木村、市振ヨリ十四五丁有り。中(越中)・後(越後)ノ堺、川有り。渡りテ越中ノ方、堺村ト云ふ。加賀ノ番所有り。出手形入るノ由。泊ニ至りテ越中ノ名所少々覚える者有り。入善ニ至りテ馬ナシ。人雇ひテ荷ヲ持たせ、黒部川ヲ越ゆ。雨ツヾク時ハ山ノ方ヘ廻るベシ。橋有り。壱リ(里)半ノ廻リ坂有り。昼過ぎ、雨為降晴。申ノ下剋(さるのげこく・午後五時)、滑河に着く。暑気甚だシ。』
↓ 「伝・芭蕉の宿「桔梗屋跡」
↓奥の細道探訪隊に混ざる。お蔭で桔梗屋跡を発見できた。
「奥の細道市振の宿桔梗屋跡」
↓市振、現今の家並
〇↓「市振関所跡」 芭蕉と曾良はこの関所を通った。《奥の細道》に「越中の鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改めて、越中の国市ぶり(実は越後の国)の関に到る。此の間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。‥‥」とある。
↓「市振関所跡 ‥‥この関所の特徴は行旅の人々の検問のための番所と、海上監視の遠見番所から成っていたことである。‥‥なお、現存する市振小学校校庭内の榎は、関所敷地内にあったもので、‥‥。」
↓「関所榎(えのき)」
〇遂に越後路を通り抜けた。このあと北陸路は大垣まで、既に今春に探訪し報告済み。江戸深川から名取(仙台手前)までは、昨夏に探訪し報告済み。要するに《奥の細道》全旅程の探訪を終え報告済みとなった。めでたし。
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