《曾良随行日記》より、
『〇五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻(たつのじょうこく、午前七時半過ぎ)止む。出雲崎ヲ立つ。間モナク雨降ル。至柏崎ニ(柏崎にいたり)、天や(屋)弥惣兵衛(やそべえ)ヘ弥三良(郎、やさぶろう)状届け、宿ナド云い付けルトイヘドモ、不快(こころよからず)シテ出ヅ。道迄両度人走りテ止めるも、不止(とまらず)シテ出ず。小雨折々降ル。申ノ下剋(さるのげこく、午後四時半頃)、至鉢崎(鉢崎に至る)。宿たわらや六郎兵衛。』
◎芭蕉が越後路に不興を覚え《奥の細道》から越後路をほとんどネグレクトしてしまう挙に出た原因の、其の二が柏崎での上の一件だろう。この原因は強烈でなかったか。何せ柏崎で・紹介先の豪商・天屋に泊るつもりだったのにその玄関で不快の目に遭い激怒して天屋を飛び出し、その勢いで鉢崎(はつさき)宿まで四里、米山峠越えの難路を歩き通したのだから大した立腹だった。しかも、翌日の出立は昼時になっている。腹立ち紛れで意地で歩き通した疲れが残ったと見える。天屋で何があったのか。多分、芭蕉のみすぼらしい身なりから乞食坊主と見られ邪険な扱いをされて怒ったのだろう。天屋の主人がそんな扱いをしたのか、番頭・手代がしたのか、そこまでは分からないが、芭蕉の怒り方から見て、天屋の主人の采配を感じ取ったと見てよかろう。天屋は柏崎の豪商だった。
◎「弥三郎の状」 弥三郎とは、象潟で芭蕉一行に追いついて来て以後所々に同道した「美濃の商人・低耳」。低耳の紹介状は翌夕、直江津・今町の聴信寺でも効き目がなく芭蕉を不快にさせる。低耳に信用がなかったのではないかという疑問は無視できない。
◎リンク先→http://blog.enaka.jp/201410/article_2.html
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿