卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良》
★4「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白川の関 源頼政」に拠る。
〇歌枕満載の名文。以下四首の和歌が書き込まれている。
★1「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと 平兼盛」に拠る。
★2「白河の関屋を月のもるかげは人の心をとむるなりけり 西行」に拠るか。
★3「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関 能因法師」に拠る。
『曾良随行日記』『(四月)21日 霧雨降る、辰の上剋(午前7時半頃)止む。宿を出る。町より西の方(★註1)に住吉・玉嶋を一所に祝奉(いわいたてまつる)宮(★註2)有り。古の関の明神故に二所の関の名有るの由、宿の主申すに依りて参詣。それより戻りて関山へ参詣。‥‥』
★1 方位を定位すると「南の方」が正しい。曾良の勘違いか誤記
★2 白河神社の祭神は前章で明らかにした。それによると、祭神は四柱祀られており、そのうち二柱は「関の明神(境の明神)」とおなじく女神「衣通姫(そとおりひめ)」と、男神「中筒男命(なかつつおのみこと)」である。旗宿に「住吉・玉嶋を一所に祝奉宮有り」という記載は頷けるし、旗宿の主が白河神社について「古の関の明神故に二所の関の名有るの由」という記載も頷ける。白河の関が機能していた当時は未だ「白河神社」と呼ばれていなかったかも知れない。
↑「古関蹟の碑 白河藩主松平定信(楽翁)が寛政12年(1800)8月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。」★1 方位を定位すると「南の方」が正しい。曾良の勘違いか誤記
★2 白河神社の祭神は前章で明らかにした。それによると、祭神は四柱祀られており、そのうち二柱は「関の明神(境の明神)」とおなじく女神「衣通姫(そとおりひめ)」と、男神「中筒男命(なかつつおのみこと)」である。旗宿に「住吉・玉嶋を一所に祝奉宮有り」という記載は頷けるし、旗宿の主が白河神社について「古の関の明神故に二所の関の名有るの由」という記載も頷ける。白河の関が機能していた当時は未だ「白河神社」と呼ばれていなかったかも知れない。
↓空堀跡
↓土塁跡 。空堀の土をかきあげて築いた。
↓関所内の平地↓空堀跡
↓奥の細道・白河の関の段が書かれた碑。
↑《奥の細道》《心許(もと)なき日かず重ぬるまゝに、‥‥‥以下省略》
↓従二位の杉。推定樹齢800年。
↓幌掛けの楓。源義家が阿部貞任攻めのとき(前九年の役)、ここに生えていた楓に幌を掛けて休息したと伝えられている。
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