源義経が奥州平泉で挙兵し鎌倉の兄頼朝の許に馳せ参じるとき、福島まで来ると信夫郡の荘司佐藤基治は、平泉の主君藤原秀衡の命により、次男継信と三男忠信を義経の家臣として随従させた。この兄弟は忠義の限りを尽くして義経の為に奮戦して討死にし、義経記に麗しい二輪の花を咲かせた。
《奥の細道》《月の輪のわたし(文字摺石の北約一キロ余にある阿武隈川の渡し)を越えて、瀬の上と云う宿に出づ。佐藤庄司(しょうじ)が旧跡は、左の山際一里半斗(ばかり)に有り。飯塚(飯坂)の里鯖野と聞きて尋ね尋ね行くに、丸山と云うに尋ねあたる。是、庄司が旧館也。梺(ふもと)に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて、泪を落し、又かたはらの古寺(★註1)に一家の石碑を残す。中にも、二人の嫁がしるし(★註2)、先ず哀れ也。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつる物(もの)かなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物(じゅうもつ)とす。
《笈も太刀も五月にかざれ紙幟(かみのぼり)》
五月朔日(ついたち)の事なり。》
★註1 「(佐藤庄司が旧館の)かたわらの古寺」というのが、これから訪ねる瑠璃光山医王寺である。
★註2 「中にも二人の嫁がしるし」は医王寺にはない。翌日訪ねた宮城県白石市の「鐙擦(あぶみずり)石」の近くの山合の旧奥州街道細道に面してある「甲冑堂」に収められている兄弟二人の嫁たちの甲冑姿の木像のことを、芭蕉が勘違いしてここに書いたのではないかという説が有力。
《曾良随行日記》によると『瀬の上より佐場野へ行く。佐藤荘司の寺有り。寺の門に入らず。西の方へ行く。堂有り』とあるから、芭蕉と曾良はこの山門は潜らずに前を素通りして奥の方の杉並木に直行したものと思われる。
↑「当寺は瑠璃光山医王寺といい平安時代淳和天皇の御代、天長3年(826)の開基で弘法大師御作の薬師如来をおまつりしております。当地方を信夫といい、信夫の荘司であった佐藤基治は治永のヶ会社(1177)大鳥城を居城とし奥州南部の広域を治め非常な権勢を持っていました。信仰心の強い基治は禅堂を改修し堂塔伽藍を建立し源氏の再興を祈願し一族の菩提寺として寺門を興隆させました。やがて平泉の鎮守府将軍、藤原秀衡のもとにあった源義経が平家討伐に向かう時基治はその子継信、忠信の二人を遣わしめました。兄弟は義経の忠実な家来としてめざましい活躍をしたが、惜しくも兄継信は屋島の合戦で能登守教経の矢を受け義経を守る盾となり、また後に頼朝との和を失った義経一行が京都で追手に遭い苦戦に陥った時、弟忠信は義経を名乗って敵を引きつけ主君を逃がし自分は身代わりとなった。その後弁慶等と共に無事に奥州に下った義経一行は、平泉へ向かう途中大鳥城の基治に会い継信、忠信の武勲を伝えるとともに当寺に参籠して二人の追悼の法要を営みました。時は移っても、後の世まで伝わる継信、忠信兄弟とその者たちの忠孝に心を打たれた松尾芭蕉や松平定信をはじめとする文人墨客が香華を手向けております」
《曾良随行日記》『‥堂の後ろの方に庄司夫婦の石塔有り。堂の北のわきに兄弟の石塔有り。そのわきに兄弟のはたざおをさしたれば、はた出しと云う竹有り。毎年、弐本づつ同じ様に生ず‥』
↓「佐藤基治公・乙和姫墓」
↑「乙和椿の由来 信夫荘司佐藤基治公一族の墓域の西端にあって樹齢数百年つぼみが色つけば落ち一輪も花と開かず悲史母情を知るつばき。義経の家来として継信忠信の二人を西国に失った母乙和子姫の悲しみは謡曲「摂待」や「甲冑堂物語」の伝うるところであるがいつの世にも変わらぬ親の心がしのばれる。《咲かで落つ椿よ西の空かなし》」
↓「乙和椿」
《曾良随行日記》『‥寺には判官殿笈(★註:笈は寺伝では弁慶の笈)・弁慶書(かき)し経など有る由。系図もある由。‥』
夕刻で閉館時刻を過ぎていたので宝物類の拝観を果たせなかった。残念で悔いが残った。いつの日か必ずや医王寺宝物館を訪ねる。宝物の「笈」の持主が《奥の細道》では弁慶、《曾良随行日記》では義経とされて矛盾する。多分曾良の記述が正しい。芭蕉は事実はどうあれ、太刀は義経に佩かせ、笈は弁慶に背負(しょ)わせるのが文学的に正解と見たのだろう。
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