涼しさを我宿にしてねまる也
這い出でよかひや(蚕の飼い屋)が下のひき(蟇蛙)の声
まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
蚕飼(こがひ)する人は古代のすがた哉 曾良』
『曾良随行日記』『‥‥昼過、清風へ着、一宿ス』
↓「この建物は芭蕉・清風歴史資料館です。‥‥。開館時間〇午前9時から午後4時半まで」
残念ながら到着時刻は午後5時近かった。
「おくのほそ道」にはいくつかの旅の拠点があるといわれます。それは芭蕉の「知る人」との再会やめぐり会いで、芭蕉が旅の途中から江戸の杉風へ宛てた手紙に、「出羽の清風も在宅だというので立ち寄り、しばらく逗留するつもりだ。庄内や象潟の旅はどうしようか、まだ心が定まらない」と書いています。尾花沢に10泊したのは芭蕉の最初からの予定で出羽路の旅程も清風宅で考えたと思われます。
長く滞在するつもりの芭蕉らに、ゆっくり休養してもらうためには遠慮のいらない麓の養泉寺がよかろうと、案内したのも清風の配慮です。その間、清風宅に泊まって次の「おきふしの」の歌仙を巻き、2巻の歌仙を尾花沢に残して、5月27日の朝、清風から馬で送られて山寺立石寺の見物に旅立っていきます。
芭蕉が「おくのほそ道」に、「彼は富めるものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情を知りたれば、日比とどめて長途のいたはりさまざまにもてなし侍る」と感謝をのべています。
当時の尾花沢(400軒余)は、幕府代官の陣屋と羽州街道の宿場町で、地域の文化経済の中心であり、商業活動の盛んな町でした。」
↓尾花沢「芭蕉清風歴史資料館」パンフより。清風宅・内部
〇芭蕉真筆二点・尾花沢市所有
↑「岸本八郎兵衛宛書簡2点は、おくのほそ道行脚中の羽黒山で芭蕉の門人となった「呂丸」が京都で客死したときの手紙です。宛先は呂丸と同郷の江戸詰め鶴岡藩武士である「岸本八郎兵衛」です。芭蕉は元禄6年3月5日から8日間で、全4通の手紙を岸本宛に送っています。このことからも芭蕉がいかに呂丸の死を惜しんだかうかがえる貴重な資料です。」
〇『呂丸』は、ボクのこの「奥の細道紀行」の羽黒山の章にも登場する。
↓清風宅・裏。蔵があったのだろう。
↓清風が崇拝していた柿本人麻呂神社
↓鈴木清風画像
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