2019年11月4日月曜日

★奥の細道紀行 第151章 山形県北村山郡「大石田・川船役所」

奥の細道》《最上川の(乗)らんと大石田と云ふ所に日和を待つ‥‥》

〇この文章を読むと、芭蕉は大石田で日和を待って舟に乗って最上川を下ったように見える。が、実際は大石田で3泊して、馬に揺られて北の方・新庄に向かい、新庄で2泊して陸路西の方、本合海(もとあいかい)に向かいそこから舟便を利用している。
〇芭蕉は「日和を待つ」と書いたが、実のところ大石田で今後の方針について迷いがあったのだと思う。①舟に乗って下流・出羽三山を目指す、②西方・山形に寄る、③北の方(尾花沢の西北の)新庄に向かい俳人達と遊ぶ。
〇大石田の南には、碁点(ごてん)、隼(はやぶさ)、三ヶ瀬(みかせ)の最上川三難所があり、酒田から物資を安全に上流に運ぶためには、大石田河港で陸揚げし、三難所を避けて陸路運ぶ方がリスクが少なく、確実であった。舟運で上流部に運ぶ場合でも、三難所があるため、酒田港からの大型の川舟はここまでしか入れず、三難所を越えるために小型の舟に積み替える必要があり、いずれにしても大石田河港に舟を着けなければならなかった。そのため、大石田は最上川の港としては最大の物資の集積地として繁栄した。天領であり、大石田川船役所が置かれた。
↓大石田に行く途中、天童市で見た月山



 ↓これは湯殿山か。
↓大石田に着いた。石碑「大石田河岸 船役所跡」
 ↓下流方面
 ↓上流方面
 ↓中央、船役所出入口
↓「小鵜飼舟 最上川を上り下りした川舟には、「ひらた舟」と、急流の難所を乗り切るために鵜飼舟を改良した「小鵜飼舟」がありました。小鵜飼舟は、元禄年間(1690年代)に米沢上杉藩で使われ幅が狭く小型で、多くの荷物を積むことはできませんが、船脚が速く、水の切れがよくて小回りがきくことから、最上川上流(左沢より上流の地域)で用いられました。小鵜飼舟が大石田沿岸で輸送用として見られるようになるのは、川舟役所が廃止された明治5年(1872)以降で、明治7年(1874)の「山形県一覧概表」によると、ひらた舟101艘、小鵜飼舟274艘となっており、最上川舟運は小鵜飼舟時代となりました。
◎実物の大きさ 
 長さ15~16m 幅1.8~11m 乗員3人
◎最上川の(上り)下りに要した日数(大石田~酒田)
 下り‥4~5日 上り‥14~15日
◎船で運ばれたもの
 下り舟(大石田から積んだもの)米・紅花・あおそ・大豆・小豆など
 上り舟(酒田から積んだもの0)綿・木綿・塩・茶・海産物など 」

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