2016年6月4日土曜日

〇6/4(土) 摂津国・高槻・吹田、大阪市天王寺区、泉州・堺を走り回って文化財を探訪。よく働いた一日

朝、多賀SAで目覚めると太陽が高い。八時過ぎかなと思って時計を見るとまだ六時半。もう夏至の月に入ったのだ。出発は結局八時。最初の探訪地・高槻城到着、九時。以下、今日の探訪地を列挙。
①、高槻市、高槻城。キリシタン大名・高山右近の銅像が立っていた。城跡は極小さくしか残っていない。が、それは問題でない。ボクの関心は、荒木村重が信長に謀反したとき、その与力大名の高山右近の支配する高槻城の地理的位置がどれだけ信長の脅威だったかを実感すること。大山崎の南。京都に匕首を突き付けた恰好。謀反当時、石山本願寺(大阪)の抵抗は続き、三木城の籠城戦も続いていた。信長は調略戦で、高槻城の右近と茨木城の中川瀬兵衛を寝返らせた。右近は秀吉からキリスト教を捨てるか・大名を捨てるかと迫られて大名を捨てた男。国外追放となり(教義上切腹・自殺はできない)ルソン島到着後40日で熱病で死亡したという。
②、吹田市、交野天神社(かたのあまつかみやしろ)。本殿と摂社本殿が重文。継体天皇の宮がここの境内にあったという伝承がある。今も継体天皇を祀る摂社がある。
③、吹田市、片埜(かたの)神社。本殿が重文。失敗したのは、隣接する牧野公園に《阿弖流為・モレ》の墓があるというので探訪しようと思っていたのに現地ですっかり忘れた。アテルイとモレは坂上田村麻呂に投降して都に連れて来られた。田村麻呂の嘆願空しく首を切られて晒された。
④、大阪市天王寺区、勝曼院(しょうまんいん)愛染堂。多宝塔・本堂が重文。駐車場が発見できなくて四苦八苦。四天王寺に近接。元は四天王寺の別院だったらしい。多宝塔は秀でている。
⑤、堺市堺区。南宗禅寺。唐門・仏殿・楼門が重文。ボランティアの解説が付いた。徳川家康が大坂夏の陣で後藤又兵衛基次の槍に刺殺されてこの寺に葬られた伝説があるそう。墓もあり、空襲で焼かれるまでは東照宮もあった。唐門を入ると真正面に東照宮があった。今は東照宮の位置に立派な墓石が立てられている。その裏面に松下幸之助の名も刻印されている。焼失を免れた唐門の軒瓦には三つ葉葵の紋所入り。2代だった将軍秀忠と3代将軍となる家光が同時にこの寺を訪れたことがあるそう。単なる伝承と切って捨てるには、切り捨て難い証拠らしきものが累積していて妖しい。千利休、その師の武野紹鴎(たけのじょうおう)もこの寺で茶の修行をした。仏殿には八方睨みの龍が天井に居る。古田織部作の庭がある。この寺はとかく怪しい。住職が境内一切撮影禁止の命令を出している。全国で二例目。興醒め。宗教施設だと言い張るなら、文化財修復費用の国庫補助を返上せよッ(--〆)境内撮影禁止命令については、かつて新長谷寺(しんちょうこくじ、美濃国)の措置に対して随分噛みついてやったが、考えてみると彼の寺は拝観料は取らなかった。此の寺は拝観料を取ったうえでの撮影禁止。宗教施設であって観光寺院ではないという寺院の矜持がこのような措置を執らせる根拠だろう。それから云うと、新長谷寺は筋が通っている。南宗寺の措置は勝手気儘。新長谷寺には許せるところもあった。
⑥、南宗寺の向かいにあった海会禅寺(かいえぜんじ)には重文が三つある。門廊・庫裏・本堂。しかし、非公開。ボクは隙間から覗いただけ。庫裏と本堂が一棟で、こういう形式は江戸初期の建物では珍しいとされている。
⑦、堺市南区、法道寺。多宝塔と食堂(じきどう)が重文。この寺の境内に足を踏み入れた時もう四時を15分ほど回っていた。夕暮れっぽくなり誰もいない。その境内の佇まいの美しさと見事さにボクは思わず唸った。感嘆したのだ。楼門を潜ると正面に本堂、右手に大師堂、左手に食堂と多宝塔。それら五つの堂塔伽藍がどれも素晴らしい出来栄えで異彩を放っている。中でも多宝塔と食堂は素晴らしい。この寺の秀でたところはその伽藍配置の整合性。一見して境内のバランスが美しい。この寺の裕福さは、霊園事業の大成功にあると見た。拝観料は当然の様に取らない。
〇道の駅「いずみ山愛の里」が近くにあったので入り込んだ。コンビニを経由したの午後六時頃か。槇尾山・施福寺(西国33札所観音霊場第4番)に行く交差点が近くにあった。意外な所にまで足を延ばしていたもの。明日は南河内、和泉国を回るが、昼過ぎには帰路に就かねば

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