2016年6月19日日曜日

〇6/4(土)大阪府高槻市「高槻城跡」「高山右近銅像」

〇高槻市街地の中の城跡公園に高槻城の遺構の一部が露出して市民に親しまれている。露われているのは天守部分のごく一部で城跡遺構の大部分は地中に埋もれているそう。
 〇高山右近の銅像が建っている。彼の一生は特筆に値する。
「高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、1552年頃に摂津高山(現豊能町)で生まれたとされている。右近と父・高山飛騨守は、主君和田惟政の敵荒木村重と結び、惟政の遺子惟長を追放し、1573年右近は高槻城主となった。摂津国主である荒木村重が織田信長に叛旗を翻した1578年、村重へ子や妹を人質に出していた右近に、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、降伏を勧めた。これに対し右近は苦悩の末に開城したと言われている。その後右近は、山崎合戦には秀吉に仕え功績を挙げた。右近が高槻城主だったのは、播磨明石に移封されるまでの12年間だった。‥‥キリシタン大名としての右近は、1574年城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の伝道に努めた。当時2万5000人の領民のうち1万8000人(約72%)がキリシタンになったという。秀吉が、バテレン追放令を出した時、右近は改宗を拒否し、領地を没収されている。禁教令を出した徳川幕府により、1614年、国外追放処分を受けた。マニラ到着後40日ほどで熱病に冒され、1615年に亡くなっている。」



〇戦国時代末期、信長の勢力圏が西に延び、秀吉が中國攻めを荷っていた時、摂津伊丹城主・荒木村重が信長に叛旗を翻した。東播州三木城の別所長治も反旗を翻し抵抗中であり、形勢は切羽詰まっていた。高槻城主・高山右近、茨木城主・中川瀬兵衛は信長の手で村重の与力大名とされていたが、それらの城は京と石山本願寺の中間にあり、京・信長に匕首の切っ先を突き付ける形になっていた。その高槻城と茨木城を政治力で切り崩された村重は急速に戦意を喪失していった。当時の日本史の最前線にいた高山右近と高槻城、この城はこの足で探訪しておかねばならない旧蹟だった。

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