〇南宗寺の駐車場に至るのは大変難しい。この門の前をボクは四、五回通過した。一方通行
〇南宗禅寺は臨済宗大徳寺派。↓この通用門から入る
↓坐禅堂
↑↓千利休の供養塔
↓利休の師・武野紹鴎(たけのじょうおう)の墓
↓三好一族の墓
↓坐雲亭
↓「坐雲亭 ‥下層は茶席。1623年7月徳川秀忠、同8月家光の両将軍の御成の旨を記した板額がかかっている。この両将軍の御成や東照宮が祀られていることなどによって、家康が後藤又兵衛の槍に刺され南宗寺開山堂下に埋葬されていたという伝説が残った。墓は今も開山堂下に安置されている。」
↓唐門・重文 この門から一直線に家康公の墓、東照宮(焼失)と続く
↓「唐門 国指定重文。元来は東照宮の本殿・拝殿に通じる門であったが、先の戦災で焼失し、門のみ残った。跡には水戸徳川家家老の子孫により石碑が建てられている。徳川時代、堺奉行の赴任の際には常に南宗寺に参詣していたといわれる。」
↓家康公の墓↓「無銘ノ塔 家康〇諾ス 観自在」
↓東照宮の焼失跡に建てられた石碑
↓戦前の写真。右側の流造り屋根の建物が東照宮、その背後左側の白壁の建物が開山堂(戦災で焼失)↓方丈・枯山水の庭
↓仏殿・重文
↓仏殿天井の「八方睨みの龍」 四方八方どの位置から見上げても睨まれているように見える。龍顔も移動するから不思議
↓本堂
↓山門・甘露門。重文
↓三好長慶公像 彼は三好党(阿波国吉野川上流の三好地方から京に攻め上って来ていた軍勢)を率い、信長が上洛するまで、松永久秀と連合を組んで足利将軍を尻目に専横に振る舞っていた。信長によって追い払われた。彼は茶人であり文化人としても勝れていた。南宗寺を興隆させた。
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