〇姫路城を後にしてその北方にあるという「随願寺」を目指した。カーナビの示すところでは広峯山麓の白国という地区にあるはず。その辺りは広峯神社探訪の折に走り回って既知。楽勝ムードでその辺りを探し回るが全然手掛かりがない。一時間超・辺り一帯を走り回ったが見付かりそうにない。お手上げ状態で姫路市の文化財課に電話。ウチに何の電話や、風の受け答えだったが、それでも手掛かり情報は呉れた。随願寺は増位山の山頂にある、増位山は広峯山と連山。
連山なら広峯山から通じているかもしれないとかねて知ったる広峯山に登ってみた。
↓広峯神社の鳥居
↓「増位・広峯連山 まちの背後につらなる増位・広峯の山なみは‥‥
木立も変化に富み、随願寺・広峯神社の建造物等文化財が自然と調和して‥‥」
〇確かに増位山・随願寺が近くに感じられるようになった。寺に到達できそうな手応えを得た。
↓とりあえず広峯神社に向かって歩き出した。しかしこのまま歩を進めても神社から寺までは、例え道が通じていても神社背後から尾根道を延々と辿るしかないことを、先の広峯神社探訪の時にボクは見分済み。そこでボクは参道中途で立ち止まり、慣れないスマホを操作して位置情報から始めて遂に増位山と随願寺の存在とその位置を画面上に表示できた。
一旦広峯山を下り、山麓の白国地区の随願寺口から増位山に登頂を開始した。今度は増位山に登っているという信念があるから実にスムーズな運び。昔なら大変険阻な山道だったろうに、今は自動車道がついている。明治維新までは、増位山(随願寺)・広峯山(廣峯神社)は神仏混淆の神道・修験道の隆盛な山だったに違いない。
↓増位山山頂駐車場にあった案内板。上方「増位山」の白抜き文字の下に随願寺が見える。
因みに大相撲に親子共に大関になった増位山という関取がいたが、姫路出身なので故郷の有名山の名を四股名にした。増位山は正式には「ますいざん」と呼ぶらしいが、山を「ざん」と読まして出世した力士がいないため「やま」と呼ぶことにしたそう(後半はWiki の知識を拝借)。
駐車場から随願寺までは徒歩で行く。近い。
↓重文・開山堂 解体修理の際、1654年の墨書と1641年の墨書が発見された。随願寺に現存する最古の建造物
開山堂から本堂を見る。間に榊原忠次墓所唐門が見える
↓重文・榊原忠次墓所唐門
↓忠次の一代記が3.000文字で刻された石碑
↓本堂・重文 大鬼瓦銘に「元禄五年(1692)‥」の箆書(へらがき)銘がある。様式的にも元禄時代を代表する建築の一つ
↓経堂・重文 平面的には正堂と礼堂を並べた形式の堂が変化したもの‥。大鬼瓦に宝暦11年(1761)、内陣仏殿下には宝暦13年(1763)の銘がある。‥
↓毘沙門堂
↓重文・毘沙門天立像
↓重文・鐘楼 瓦銘から享保3年(1718)の建立。
↓解体修復中のお堂。何堂かは不明
↓右奥に修復中のお堂が写っている。その向かい・左奥に鐘楼がある
↓手前から経堂、毘沙門堂、鐘楼
〇この後、山陽自動車道に入りできるだけ岡山県瀬戸内市に近いSA・PAに入って泊ろうと思ったが、福石PAで脳が活動を停止した。まだ午後四時と早目だったが、車中ですることは山ほどある。旅先でのボクの夜は短い。
2016年5月24日火曜日
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