「くろべ四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云う浦に出ず」 那古の浦は今の新湊市あたりの海岸線と思われる。
越中国では滑川と高岡に泊まったことが曾良随行日記に記されている。
「13日、市振立つ。‥(越)中・(越)後の堺、川有り。渡りて越中の方に越す。堺村と云う。‥人雇いて荷を持たせ黒部川を越す。‥申(さる)の下剋(げこく)(午後四時頃)滑河(なめりかわ)に着き、宿す。暑気甚だし。‥」
〇滑川にはほとんど情報を持たずに入り込んだので期待していなかったのだが、道の駅で案内嬢(細身のおばさん)に芭蕉句碑の存在の有無を尋ねたらパンフレットを片手に見事な観光案内をしてくれた。満願の解説。パンフレットには何と芭蕉が宿泊したという説がある「川瀬屋跡」まで記してあった。喜び勇んで滑川の旧市街を訪ねて句碑箇所と川瀬屋跡地それにJR滑川駅前の旧北国街道道しるべを全て探訪した。それは好かったのだが、案内嬢の一言が余計な不幸を招いた。「旧市街で駐車場がないので歩き回った方がいいですよ」。ボクはその言葉を有難く頂戴して徒歩で滑川市街の大半を歩いた。暑気甚だしい日だった。ボクは道半ばでグロッキーになった。多分熱中症。駅前のベンチで休み途中の公園の木陰の長椅子で寝転がり、ようようのことで道の駅に辿り着いた。土・日の野宿旅行を続ける気力体力は失われていた。ので七尾に戻ることにした。家に着いたのが18:30.。女房が変な顔をしていた。
↓県道1号線。これぞ旧北国街道だろう。
↓海岸線近くをそれに平行に走る県道1号線↓防波堤・日本海を背に「川瀬屋跡」がある。小公園になっている。
↓右側の団子石「芭蕉翁・おくのほそ道宿泊のまち」
川瀬屋の主人は門人でもあった。
↓川瀬屋跡の筋向いにある「荒町(新町)公民館」
〇芭蕉と曾良が疲れた足を引き摺ってとぼとぼ歩いた旧北国街道をボクも歩き、そして滑川で宿泊したと思しき「川瀬屋跡」にも到達した。望外の幸せだった。
0 件のコメント:
コメントを投稿