〇曾良随行日記の滑川~高岡の段は行路の記述が比較的詳細・正確で、越中人なら解読が容易なのかもしれない。しかしそれ以外の者にはちんぷんかんぷんだろう。ボクは最近この行程をセレナを駆って二度に亘り辿ってみた。その結果、現代の地図に落としてこの行程を誰にも分るように解説できるようになったと思う。それで僭越ながら自説の御披露に。
先ず曾良随行日記の上程から。
『○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川也。半里計)。 氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。不快同然。』
この文章を現代語に意訳すると、「七月十四日(西洋暦で8月28日)、快晴。暑気が酷い。富山に向わずに海岸線に沿って旧北国街道を辿る。数々の越中の歌枕(奈呉の浦・田子の藤浪・二上山・岩瀬野等)を見たかったので(滑川から一里程来ると常願寺川の渡しに着く。渡った所で富山に向う分岐点がある)。滑川から三里で東岩瀬村に着く(ここに渡しが有る。大河であり名は神通川)。神通川を渡ってから四里半で新湊の放生津八幡宮に着く(新湊で渡しが有る。大変大きな川で川幅が半里(2km)ばかりもある。川の名は庄川)(★註:当時庄川と小矢部川の河口は合体していたらしい)。渡った所が伏木。ここから歌枕・田子の藤浪を見るため氷見へ行こうと思ったが行かなかった。高岡に向うことになった。伏木から高岡の行程は二里だった。奈呉の浦・二上山・岩瀬野等の歌枕を見れた。高岡に午後四時前に着いて宿を取った。翁のご機嫌は悪い。暑気は本当に酷い。不★同然である。(註;★印部分の文字は原文で判読不能とか)」
〇当時の1里は約4km(弱)だった。人が半刻(はんとき・1時間)で歩く距離がほぼ1里。
〇「ハウ生子」、これの解釈が難問だった。「はうしょうず」と読ませるのだろう。それなら「放生津(ほうしょうづ、ほっしょうず)八幡宮」(新湊の海王丸パークの近くにある)に違いない。
〇常願寺川、神通川、庄川までのそれぞれの里程はほぼ合っている。
〇何かスッキリ感がある。
2016年8月6日土曜日
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