11:00、旅に出た。
〇12:00、高岡いわせの郵便局で自分宛の葉書を出した。大伴家持の歌《石瀬野(イワセノ)に秋萩しのぎ 馬並(な)めて 初鳥狩(はつとがり)だにせずや別れむ》が挿入されたスタンプで消印された葉書を入手するため。この郵便局は伏木と高岡の間にある。芭蕉が歩いた正にその行路上に位置する。古代にはここはその地形から見て好い鳥の狩場だったろう。万葉の歌枕の地がここであり、その地を求めて芭蕉がここを通ったのはほぼ確かだろう。《奥の細道》の芭蕉足跡を辿りきることを悲願とするボクとしては、ここの郵便局に家持歌入りの消印スタンプがあることを知ったが最後その消印を入手してここ高岡石瀬が芭蕉の訪ねたかった歌枕だったことの証明の一助とせずにはおけない(地元の人は石瀬を「いしぜ」と発音した)。旅から帰ったら消印した葉書が届いている。
◇《奥の細道》『黒部(くろべ)四十八ヶ瀬(しじゅうはちがせ)とかや、数(かず)しらぬ川をわたりて、那古(なご)といふ浦(うら)に出(い)づ』
曾良随行日記『○十三日 市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四五丁有。中・後ノ 堺、川有。渡テ越中ノ方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ到テ越中ノ名所少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黒部川ヲ越。雨ツヾク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴。申ノ下尅、滑
河ニ着。暑気甚シ。』
〇黒部川を見分する。先ず黒部大橋。芭蕉の通った旧北国街道はもっと海寄りだと思って海岸線に近づくと県道2号線に行き当った。これぞ旧街道と思った。橋があった。河口に行く道があったので黒部川が富山湾に注ぐのを見てきた。黒部大扇状地には扇の骨の様に分岐した多くの川が流れていたのだろう。今は耕地整理が徹底して分流した川の面影を留めている水路はほとんどない。分流には伏流水が湧き出して水源を成していたものもあろう。今も黒部扇状地には幾つもの湧出源がある。その一つが県道沿いにあって引きも切らず水汲みに人が訪れていた。
〇越中・越後の堺に「堺川」があった。堺川を富山県の方に渡ると堺村があり、加賀藩の関所(番所)跡があった。
◇曾良随行日記『○十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム』
〇糸魚川市街に荒屋町の町名は今は無い。
〇糸魚川の外れに早川があった。芭蕉が渡河中につまづいて衣類が濡れて河原で干したという面白いエピソードがある川。今は四本の巨大な架橋が並んでいる。河口側から国道8号線、旧JR線の橋、さらにJR西日本新幹線、北陸自動車道の高架。とても川原で着物など干しておれない。
◇《奥の細道》『今日(きょう)は親しらず子しらず・犬もどり・駒返(こまがえ)しなどいふ北国一(ほっこくいち)の難所(なんじょ)を超(こ)えてつかれはべれば、枕(まくら)引(ひ)きよせて寐(ね)たるに、一間(ひとま)隔(へだ)てて面(おもて)の方(かた)に若(わか)き女の声二人(ふたり)ばかりと聞こゆ。年老(としおい)たる男(おのこ)の声も交(まじり)て物語(ものがたり)するを聞けば、越後(えちご)の国新潟(にいがた)といふ所(ところ)の遊女(ゆうじょ)なりし』
〇 国道8号線の親不知越えの道は難路。途中に展望台があり「天嶮親不知」の絶景を眺めた。道の駅・親不知で写真集を買った。
◇17:00近くなったので妙高高原池の平のシェーネに電話したがずっと不在。仕方ないので今夜は名立谷浜SAで泊ることにした。明日は沼田から日光に抜ける予定。
猛暑にもかかわらず相変わらずの行動力、感服の至り m(_ _)m
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