朝8時「道の駅・こんぜの里りっとう」で目覚め、8時半に出発。最初に目指すは、
①大津市の南の山奥の山村に残る「春日神社」重文本殿。見出した時に覚えた感動は、網膜に映った映像と共に生涯忘れ得ぬもの。文保2年(1319)鎌倉時代以来この山里のここに建ち続けて村人を見守り続けてきたその神々しさと貫禄。三間社・流造・檜皮葺。
②大津市街に突入して「和田神社」重文本殿。本殿で式を挙げていた。
③市街地の大津別院・重文本堂。書院も重文だというが、らしき建物は見当たらず。
④膳所神社・重文表門。元膳所城の二の丸と本丸の間の城門だったが、明治3年城取り壊しの際移築されたそう。
⑤篠津神社探訪のためハリアーを湖岸Pに預けて歩いていたら偶然重文・居宅を発見。「蘆花浅水荘(ろかせんすいそう)。拝観は要予約と張り出してあったので門内をちょっと覗かせてもらっただけ。
⑥「篠津神社」重文表門。元膳所城の北大手門だったが、明治3年城取り壊しの際移築された。
⑦大津市と云っても湖西方面に入って北上し比叡の辻あたりにある「聖衆来迎寺(しょうしゅうらいこうじ)」表門・本堂・客殿・開山堂各重文。4棟も重文建造物があるのに、境内にその旨表示されたのは客殿だけ。開山堂は「滋賀県指定文化財」時代の表示のままだし、表門・本堂に至っては何の案内もない。住職は観光寺院でない旨貼り出して宣言しているくらいだから、重文であろうがなかろうが大した意味はないということだろう。それでも観光客が境内を自由に歩き撮影も自由にしても目くじらを立てられない。ここが関市の長谷寺(ちょうこくじ)との大差。関市・長谷寺の撮影禁止処分の理不尽さには今も腹の虫が納まらない。この寺には森蘭丸の父・森可成の墓がある。この寺は天台宗でありしかも比叡山の麓・登り口にあるのに信長の比叡山焼打ちの被害に遭わなかったのは、このせいだとの説が有力。森可成は信長のために身を挺して討死にした人物。それもあって信長は蘭丸と弟を取り立てて寵愛した。
⑧更に湖西を北上して堅田のあたりの「神田神社」重文本殿。本殿だけがある神社。この本殿、1370年頃に建てられて今まで村人に大切に護持されてきた。拝殿も瑞垣もなく裸に建っているが、それだけで神々しい。
⑨小野道風神社・重文本殿。小野神社には行ったことがある。その飛地神社のこの道風神社には幾ら探しても到達できなかったが、今日は楽々発見できた。
⑩近くの小野神社を再訪。小野神社が本社なのだが小さい。かえって境内摂社の篁(たかむら、小野篁のこと)神社本殿の方が大きく立派で重文。小野篁は平安時代の怪異物語の主人公。
⑪天皇神社・重文本殿。この神社、前に探し回ったことがあるが探索に失敗。今回は首尾よく到達。小野神社の近くにある。名称の僭越さが不思議だが、どうやら天「皇」ではなく牛頭「天王」の「王」が本当のよう。
⑫高島市に入り「若宮神社」本殿。一見の価値あり。
●今回探訪を予定していて最終省いて心残りの文化財は、甲賀市の「加茂神社」本殿と高島市の「思古淵(しこぶち)神社」。加茂神社本殿は覆い屋に覆われているそうで行っても無駄なような気がした。思古淵神社は、信長が越前攻めから逃亡して通過した鯖街道・枯木谷まで足を延ばさなければならずその時間がなかった。こここはいつか必ず探訪する。もう一つ、太神山「不動寺」の懸崖造り本殿の探訪も努力目標にあったが、海抜500数十mの岩山の山頂にあり、心臓病・貧血のボクには登頂が無理と旅の途中で諦めた。いつかこの登頂のために丸一日を予定して挑戦することがあるかも知れないが、今はその時でなかった。
午後6時50分、七尾着。走行距離数703km
〇湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺(ひゃくさいじ))・湖南三山(善水寺・常楽寺・長寿寺)・石山寺・三井寺(園城寺)・延暦寺(延暦寺は一般には京都の寺だと思われているが、実は滋賀県の寺)、日吉大社、彦根城等の国宝・重文の宝庫たる神社仏閣・城郭はすべて既に何度も訪問して拝観を済ませている。滋賀県の文化財・虱潰し探訪の旅は今日で一応卒業とする。いやはや。来週から虱潰し探訪の鉾先を何府県に向けるか、今日から検討に入りつまつまと住所・電話情報を蒐集せねばならない。天気予報では来週末も天気好さそう。
2017年3月26日日曜日
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