《奥の細道》《‥‥まど(貧)しき小家に一夜をあかして、明くれば又、しらぬ道まよひ行く。袖のわたり、尾ぶちの牧、まのゝ萱はらなどをよそめにみて、遥かなる堤(★註)を行く。》
★註 北上川の土手を北上して登米・一関を目指した
〇前章で述べたように、実際に袖の渡りを訪れたのは前日(石巻到着の日)のことであり、日和山から、予約した宿に帰る途中だった。奥の細道本文のように、石巻出立の日のことではない。
〇「袖のわたり」 北上川の渡船場の遺址。義経伝説がある。源義経が藤原秀衡を頼って平泉へ行く途中、ここの渡し船に乗ったが船賃がなく着衣の片袖を切って船頭に与えたという。
↓日和山で観光ガイドから袖の渡りに行く目印として教えられた銀色ドームに到着。
↓「石ノ森萬画館」だった。この建物の前で車の整理をしている人たちに訊いたら、石巻の人なのに誰も「袖の渡り」を知らない。中に一人、「巻石」というのがある、(指さして)そこの橋の上流にちょっと行った所にある、それじゃないか、と云う人がいた。とにかくそこに行ってみることに。
↓これがどうも「巻石」らしい。遊歩人によると、津波が来る前はもっと整備されていたが、松も貧相になったそう。ここは住吉公園というらしい。背後に銀色ドームが見えている。そのさらに背後に見える小山が日和山。
↓大嶋神社(芭蕉の時代は住吉神社だったという説がある)。ベンチの老人に訊くと、ワシは地元のものだが「袖の渡り」は聞いたことがない、と自信有りげに言う。「巻石」のことは知っていて、昔からこの石の所で川が渦を巻いていた。石巻の語源もこの石と渦巻にあると解説(渦石と言っていたかな)。
この神社、式内社で格式がある。
↓「巻石」のある所。老人の説では、津波で石が昔のままかどうか分らないそう。石は水中にあったということか。
↓水は旧北上川。向かいの山の奥に「尾ぶちの牧」があった。
↓この碑には「巻石」のことが書いてある、多分。
↓念のため神社を一周したら片隅に「袖の渡り」の石碑を発見。
「袖の和多里(わたり)乃痕」と刻してある、確かに。ボクの執念勝ち。
↓「石ノ森萬画館」だった。この建物の前で車の整理をしている人たちに訊いたら、石巻の人なのに誰も「袖の渡り」を知らない。中に一人、「巻石」というのがある、(指さして)そこの橋の上流にちょっと行った所にある、それじゃないか、と云う人がいた。とにかくそこに行ってみることに。
↓これがどうも「巻石」らしい。遊歩人によると、津波が来る前はもっと整備されていたが、松も貧相になったそう。ここは住吉公園というらしい。背後に銀色ドームが見えている。そのさらに背後に見える小山が日和山。
↓大嶋神社(芭蕉の時代は住吉神社だったという説がある)。ベンチの老人に訊くと、ワシは地元のものだが「袖の渡り」は聞いたことがない、と自信有りげに言う。「巻石」のことは知っていて、昔からこの石の所で川が渦を巻いていた。石巻の語源もこの石と渦巻にあると解説(渦石と言っていたかな)。
この神社、式内社で格式がある。
↓「巻石」のある所。老人の説では、津波で石が昔のままかどうか分らないそう。石は水中にあったということか。
↓水は旧北上川。向かいの山の奥に「尾ぶちの牧」があった。
↓この碑には「巻石」のことが書いてある、多分。
↓念のため神社を一周したら片隅に「袖の渡り」の石碑を発見。
「袖の和多里(わたり)乃痕」と刻してある、確かに。ボクの執念勝ち。
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