《奥の細道》《大山をのぼつて、日既に暮ければ、封人(ほうじん)の家を見かけて、舎(やどり)を求む。三日、風雨あれて、よしなき山中に逗留す。
蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと)する枕もと 》
『曾良随行日記』 『(五月)十五日 ‥‥。〇堺田(村山郡小田嶋庄小国之内)。出羽新庄領也。中山(中山峠、陸前・羽前の境界)より入口五六丁先ニ堺杭有り。
〇十六日 堺田ニ滞留。大雨、宿‥‥。
〇十七日 快晴。堺田ヲ立つ。‥‥』
〇芭蕉は堺田の封人の家に三日間逗留したことにしているが、曾良の日記によれば滞留は二日間だったことが分る。芭蕉はここでも(些細なことだが)微妙に文学的脚色をしている。三日と二日では語感・イメージ(風雨荒れてよしなき山中に逗留した苦難の度合い)が違う。
↓封人の家。旧「有路(ありじ)家住宅」・重要文化財
↓裏側
↓「‥‥この住宅は創建後300年以上は経っていると推定されており、江戸時代には、新庄領上小国郷堺田村の世襲庄屋・有路家の住宅兼役屋(当時の村役場)であつた。‥‥3つの内馬屋と広い内庭などが、庄屋役の外に問屋と旅宿の機能も兼ね、熱心な馬産家でもあった有路家の歴史上の多様な役割を物語っている。ちうしょうの「封人の家」とは、国境を守る役人の家という意味であるが、この名称は俳聖松尾芭蕉の『奥の細道』に由来する。元禄2年(1689)5月15日、門人の曾良を伴い仙台領を抜けた芭蕉は、その夕暮れ時に堺田村にたどりついた。芭蕉師弟は、梅雨時の風雨のために、その晩から2泊3日にわたって「封人の家」に逗留した。そのゆかりの宿がこの住宅である。芭蕉は「封人の家」に滞在中、「蚤虱馬の尿する枕もと」という句を詠んだ。この句には、この住宅の構造そのものと、かつて馬産地であった最上町の歴史的地域性が読み込まれている。」
↓入口横に、芭蕉と曾良の木像が立って迎えくれた。
↓広い土間・内庭
↓馬屋が家の中にある。物置になっている所も元は馬屋だったらしい。馬屋は3つあった。
↓芭蕉句碑
《蚤虱馬の尿する枕もと 芭蕉翁》
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