〇「泉三郎忠衡」については、《奥の細道》『塩竈神社・文治燈籠』の段が劇的である。芭蕉は彼を勇義忠孝の士と讃えている。忠は、義経を裏切らなかったこと、孝は、父の遺命(義経公の下知に従い、鎌倉殿に対抗せよ)に従ったことを指す。→リンク先 http://takashikun.blogspot.jp/2015/05/blog-post_28.html
〇衣川
↓衣川の上流方面。左に見える小富士の様な山は「月山」らしい。月山は、曾良の随行日記に「月山・白山」と並べて探訪地に挙げられる。白山は遂に分からず。月山の近くに「泉ヶ城」があった。城跡は今は民家の敷地や田畑に変わっているという(この時の探訪は2015-5-3、泉が城を探訪するために2年後の2017-5-3に再訪した。泉ヶ城の章は次に立てる)。
↓衣川の下流を見る。正面の山は「束稲山(たばしねやま)」(西行の歌で有名な歌枕。中尊寺の段で一章を立てて報告する)。山の麓を北上川は悠然と流れる。衣川はもうすぐ北上川に合流する。↓衣川に架かる新橋から中尊寺方面を見る。正面の細長い小山の尾根に中尊寺の堂塔伽藍が建ち並ぶ。義経が最期を遂げた高館は、この小山の左側に行った所にある。
↓中尊寺東物見台から見た衣川。中央に北上川が見えている。衣川に架かる橋が見えている、この橋から上の写真は撮られた。
衣川の合戦と世に言われるが、義経方は忠臣10人が全員奮戦しただけ。藤原方は郎党を挙って攻め寄せた(が、秀衡の息子たちはさすがに義経に合わせる顔が無くて戦場に出向いて来なかったらしい)。義経主従がそれぞれどこで討死に又は自刃したかははっきりしない。衣川に防御線を引くのはさすがに多勢に無勢過ぎて戦にならない。やはり義経が籠った高館の山上や山麓で果てたと見るべきだろう。弁慶が立ち往生して果てた場所も、衣川では義経と離れ過ぎ。
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