『かの(画工加衛門作成の)画図(えず)にまかせてたどり行けば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅(すげ)有り。今も年々十符の菅菰(すがごも)を調へて国守に献ずと云へり。』
〇「おくの細道」 これは具体的なある地点を指す。そこは有名な細道になっている街道の一部だつた。今・仙台市に編入されている旧岩切村入山の東光寺あたりの塩竈街道を指すらしい。細かったらしい。ボクは見当をつけたあたりを行ったり来たりしてとうとう「東光寺」を発見。さらに寺の近くに「清風荘」(アパート)を発見。この清風荘、「奥の細道の旅・久富哲雄著」によれば、十符の菅を産する谷の入口に当たるそう。小躍りしてそこから小さな谷筋に入ったら宅地化された小道が続き、すぐに道が尽きてセレナ君を回転させることもできない。その先には野菜畑が猫の額ほどあるばかり。奥の「細道」も四車線の産業道路になっていて目も当てられない。結局一枚の写真も撮らずにこの歌枕を後にする破目に。「十符の菅」とは、編目の十筋ある菅のこもを作る材料の菅。歌枕の典拠=「夫木抄」「みちのくの十符の菅薦七符には君を寝させて我三符に寝む」
『壺碑(つぼのいしぶみ) 市川村多賀城に有り
つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺斗(ばかり)歟(か)、苔(こけ)を穿ちて文字幽(かすか)也。四維国界之数里をしるす。「此の城、神亀元年、按察使(あんぜつし)鎮守府将軍大野朝臣東人(あづまひと)之所置也。天平宝字六年、参議、東海東山節度使同じく将軍恵美(えみ)朝臣朝獦(あさかり)修(おさめ)造(つくる)也。十二月朔日(ついたち)」と有り。聖武皇帝の御時に当たれり。むかしよりよみ置ける歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り代(よ)変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑ひなき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労(つかれ)をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかり也。』
〇古来歌枕として名高い「壺の碑」と、芭蕉がこうして対面し感激の涙を流した「壺の碑・多賀城碑」はどうやら同一ではない。歌枕としての「壺の碑」は、元来坂上田村麻呂(実は文屋綿麿)が奥州七戸壺村の北に建てたと伝えるものを指し、新古今集頃までの歌枕としてはそれを指したそう。
↓以下、「壺の碑」
↓「壺の碑」碑
↓「壺の碑」を蔵する小堂
↓「壺の碑」正面。表面に刻字があるが、かなり風化。重文
↓左右裏面には刻字なし。
↓御堂の右側に芭蕉句碑がある
芭蕉句碑
《あやめ草足に結ばむ草鞋の緒 はせを》
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