〇《奥の細道》より、
『‥‥などよそめにみて、遥かなる堤を行く。心細き長沼にそふて、戸伊麻(といま)と云ふ所に一宿して、平泉に到る。其の間廿余里ほどとおぼゆ。』
〇《曾良随行日記》より、
『(五月)十一日 天気能(よし)。石ノ巻ヲ立つ。‥‥。飯野川(一リ(里)余渡し有り。三リ(里)ニ遠し。此の間、山ノアイ(間)、長き沼有り)。‥‥。戸いま(伊達大蔵・検断庄左衛門)(登米)、儀左衛門宿不ㇾ借、仍検断告テ宿ス(儀左衛門に宿を借らず、検断庄左衛門に告げてそこに泊ったらしい)。
十二日 曇り。戸今(登米)を立つ。三リ(里)、雨降出ル。上沼新田町(長根町トモ)三リ(里)、安久津(松嶋より此処迄両人共に歩行。雨強く降ル。馬ニ乗る)。一リ(里)、加沢。三リ(里)、一ノ関(皆山坂也)。黄昏ニ着く。合羽モトヲル也。宿ス。』
〇「松嶋より此処迄両人共に歩行。雨強く降ル。馬ニ乗る」とあるからには、石巻への道中も歩行だったか。ボクは「馬次」の解釈を誤ったか。後で検討。
〇芭蕉は、一関に一泊したことをわざと抜かしている。平泉までに二泊しては旅程が緩やかで悲壮感に欠けると考えたか。
〇「遥かなる堤を行く」 石巻から一関の手前まで北上川の土手道が延々と続く。
〇「心細き長沼」 この沼は、今は新たに開鑿された新北上川の河道の中に取り込まれている。
↓この図の左端に旧北上川と書かれている。芭蕉達はこの旧北上川の堤を右側に辿ってきて、現在の北上川に合流する地点にまで来た。右へ行けば新北上川沿いである。合流地点が飯野川である。飯野川大橋が架かっており、また図の中央に飯野川高校がある。芭蕉らは北上川を真上方向に辿った。図のてっぺんに合戦谷と表示されている。この合戦谷の手前に長沼があった。
↓「長沼」の解説文がある芭蕉公園
↓「‥‥芭蕉らが「心細き長沼」と評した沼は、昔この地、合戦ヶ谷部落の西に横たわっていた「合戦ヶ谷沼」のことである。古地図によると、その沼は東西300m、南北1,500mほどの細長い大沼であった。山間を貫き南北に伸びる街道の脇にひっそりとたたずまう大沼の風景は、文字通り「心細い」荒涼たるものがあったろう。今は大正期に行われた新北上川開さく工事により河川と変わり、その姿はなく、わずかに北上大堰の上流峡谷の地形に往昔の面影をしのぶのみとなった。」
↓新北上川。この河川の流れのどこかに「長沼」が眠っている。
↓多分、この大堰の上流に見える谷間が合戦谷で、長沼はこの辺りにあった。芭蕉らはこの谷間を通過した。
登米(とめ)へ。登米の北上川の土手に芭蕉一宿の地の石碑が立っているらしい。
一関へ。一関の地主町・磐井橋近くに芭蕉「二夜庵跡碑」が建てられ、平泉への行き帰りに二泊した宿の跡(空き地)も残されているという。「二夜庵跡」。金森家だそう。
2015年5月24日日曜日
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