5/7(木)晴。今日の目標は、鶴岡・酒田の順に芭蕉の痕跡を探訪し、秋田県の象潟まで行って戻って来ること。戻りは新潟県の村上辺りまで戻る。鶴岡・酒田では手掛かりも攫めないだろうと始めから諦めて、しかし事の順序として行かねばなるまいと思って行った。それが思いがけなく大成果を挙げた。
鶴岡の街では「重山小路」という名が残っているというのが手掛かり。芭蕉を羽黒山から鶴岡の自邸に迎えたのが、重山某という百石取りの武家だったそうで。重山小路なんぞ、地元の人でも知る人なんか居ない。探訪の専門家が言うんだから違いない。実際街に突入しても皆目見当がつかない。ので、とりあえず鶴岡駅へ。情報なし。駅から真っ直ぐ大通りを直進して行ったら左右に分岐することに。右を選んだら、選んだ先が微妙な街並み。注意して見るといきなり「重山邸跡→」の標示があった。発見するのが不思議な程の小さい何気ない標示。道はセレナ一車分の幅。矢印を三つほど追うと‥‥着いてしまった、重山邸跡に。句碑があった。芭蕉が川船に乗って酒田に向かった・その乗船場が遠くないというので行ってみると‥‥あった。内川という川。最上川の支流だろう。最上川の河口に酒田はある。右の道を選択したその交差点に「日枝神社」があり、そこにも芭蕉句碑があるというので行ってみた。あった。何と縁起の好い日だろうと思った。
酒田は期待していなかった。何せ手掛かりは「不玉邸跡」というのだから知る人がいることがおかしい。酒田の街をしばしウロウロしていたら、腹が緩くなって急を要してきた。日和山公園が近くにあったのでトイレを求めて園内に入りキョロキョロしたら、何と芭蕉の銅像と目が合った。銅像の背後にはトイレもあった。この公園には、芭蕉の銅像・句碑・説明碑などが三箇所に亘って設置されていた。説明碑によると、鶴岡を川船で出た芭蕉はこの公園のすぐ下にある河口湊に到着し今「芭蕉坂」と呼ばれる坂を上って漁師町の家に入ったんだそう。その家が「不玉邸」だったろう。不玉は俳号で、元禄時代の医者だった。これだけ具体的に説明しておいて「不玉邸跡」について記載がないんだから、邸跡は分からないんだろう。が、ボクにはこれだけで十分だった。酒田でも好運の女神がボクに微笑んだ、というか抱きついてきた。
象潟は二度目だが、田圃の中の島巡りに今回は挑戦した。指示通りに歩けば主な島々を一周できることになっている。昼飯抜きだったので、ポケットに入れてあったブドウ糖を齧りながらの周遊だった。ボクは糖尿病の薬(血糖値を下げる)を飲んでいる。前回発見に失敗した「能因島」も発見できた。カンマン寺の年寄の奥さんに行き方をじっくりと訊いたので。能因法師が歌枕にし、その歌枕を西行が訪ねて箔の付いた歌枕になり、芭蕉が憧れて訪ねたので伝説の歌枕になってしまった。ところが訪ねてみたその島は小さ過ぎて、能因が三年も幽閉されたという伝説が成立つ訳もなく、島には能因や西行ゆかりの歌碑もなかった。島の名はいい加減な命名。だが、島に会えたんだからボクとしてはそれで結構。
いよいよUターン。芭蕉と曾良が辿った通り越後路を目指す。出羽と越後の境目に「鼠の関」があった。その跡だという施設にも会えた。今日は思い描いた物事にすべて会えた一日だった。
今夜は新潟県に入った朝日町にある道の駅・あさひに泊る。
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