2020年2月3日月曜日

★奥の細道紀行 第249章 射水市新湊放生津八幡宮裏手の「奈呉の浦碑」

奥の細道》 くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦(★註)に出。‥担籠(たこ。氷見市)の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是より五里、いそ(磯)伝ひして、むかふの山陰にいり、蜑(あま)の苫(とま)ぶ(葺)きかすかなれば、蘆(あし)の一夜の宿かすものあるまじ」とい(言)ひをど(脅)されて、かヾ(加賀)の国に入 。
★註 「奈古の浦」=「有磯海」かどうかは定かではない。「有磯海」が何処を指すかについては二説ある。一は富山湾説(これだと黒部・魚津・滑川辺りも含まれる)。二は新湊・伏木・氷見辺りの海辺説。芭蕉が考えた「奈古の浦」は、文意から推して新湊・伏木・氷見辺りの海岸を指すだろう。黒部川を渡って奈古の浦に出たというし、奈古から担籠(たこ・田子)=氷見に行こうと考えたりしているから。
曾良随行日記』 『○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ(里)程来、(常願寺川)渡テトヤマ(富山)へ別(れる))、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川(神通川))。四リ半、ハウ生子(はうしょうづ・放生津神社)(渡有。甚大川也(庄川)。半里計(ばかり))。 氷見へ欲行、不往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ(奈呉)・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不勝。 暑極テ甚。不快同然。』
↓放生津(ほっしょうづ)八幡宮のすぐ裏。左から拝殿、本殿、塀、塀の手前の石碑が「奈呉の浦」碑。




↓「奈呉の浦碑」
〇↓「越中萬葉名勝地「奈呉の浦」
天平18年(746)6月越中の国司大伴家持卿が国府に来任中好んで逍遥した萬葉歌枕の名勝地なり。
家持「東風いたくふくらし奈呉の海人 釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」
宗良親王「今はまた訪いくる人も奈古浦に しほたれて住むあまと知らなん」
宗祇「やとれ月今朝秋風の奈呉の浦」
芭蕉「早稲の香や分け入る右は有磯海」
↓これが現在の奈呉の浦。埋め立てられて漁連の倉庫・工場が建ち並ぶ。芭蕉が訪れた時代にはまだ白砂青松の海岸だったろう。
〇放生津八幡宮の近くの海――往時の奈呉の浦に海王丸パークがある。新湊大橋も開通している。
↓新湊大橋。白い船は海上保安庁の艦艇
↓海の日なので、この日は特別に総帆展帆(そうはんてんぱん)している。
 ↓「恋人の聖地」






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