2020年2月20日木曜日

★奥の細道紀行 第291章 敦賀市「金前寺」

〇「芭蕉翁鐘塚」のある金前寺を訪ねた。芭蕉がこの寺を訪ねた記録はないが、
月いずこ鐘は沈めるうみのそこ
の句が残されている。この句については、wiki によれば次の伝承がある。
  • 「松尾芭蕉の句碑(鐘塚)
おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた芭蕉は、宿の主人から南北朝時代の金ヶ崎の戦いの故事を聞いた。すなわち、戦いに敗れた新田義顕が陣鐘を海に沈めたその後、その鐘を海から引き上げようとしたが、逆さに沈んでいたためできなかったというものである。この話を聞いた芭蕉は「月いづこ 鐘は沈るうみのそこ」と詠んだ。芭蕉の没後68年目に、敦賀の俳人である白崎琴路らが、その句碑を建立した。福井県内で最も古い芭蕉の句碑のみならず、日本海側で最も古いものである。」
↓ 右の山は金ヶ崎城跡のある山の麓。金ヶ崎城は、南北朝時代の古戦場であり、又戦国時代に織田信長が落城させた城でもある。この山の森の中に金ヶ崎神宮(南朝方で討死した新田貞顕らを祀っている。官幣中社、小社だが社格は高い)がある。
↓ 金前寺


芭蕉翁鐘塚
↓「芭蕉翁鐘塚
月いつこ鐘は沈るうみのそこ
この句は元禄二年八月十五日の雨月に翁 南北朝時代(1336)金ヶ崎落城の悲史にまつわる陣鐘の事を聞き詠んだものである。この塚は翁の歿後六十八年に白崎琴路らが建立し、その翌年より墨直しの行事が行われ古例となった。
↓句碑正面 
月いつこ鐘は  はせを
↓句碑側面
沈るうみのそこ

↓↑ 敦賀・金前寺芭蕉翁鐘塚の傍の御堂に貼り出されていたパンフを撮影。
右から列挙すると、
月清し遊行のもてる砂の上》 気比神宮
月いつこ鐘は沈めるうみのそこ》 金ヶ崎城山麓・金前寺
名月や北国日和定なき》 逗留宿・出雲屋
ふるき名の角鹿(つぬが)や恋し秋の月》 気比神宮・摂社角鹿神社
国々の八景更に気比の月》 
月のみか雨に相撲もなかりけり》 逗留先・出雲屋
寂しさや須磨にかちたる濱の秋》 色の浜
浪の間や小貝にまじる萩の塵》 色の浜
小萩ちれますほの小貝小盃》 色の浜
衣着て小貝拾わんいろの月》 色の浜
★白崎琴路17161790年)
西福寺には白崎琴路の墓がいまも残る。白崎琴路は江戸後期蕉門の俳人で『おくのほそ道』(素龍清書本、国重文指定)を譲り受け、新道野の西村野鶴に贈ったことで知られている人物である。享保元年(1716年)に敦賀の三家老の一家白崎家に生まれた。宝暦11年(1761年)1012日、芭蕉が没して68年目の芭蕉忌に金ヶ崎金前寺に句碑(鐘塚)を建立し、同時に記念句会を催した。また追善集を編纂するなど、芭蕉の遺跡顕彰に尽力した人物である。 参考文献『敦賀市教育誌人物編』『敦賀市教育史通史編上巻』

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