小 松
《奥の細道》 《小松と云所にて
しほらしき名や小松吹萩すゝき
此所、①太田(ただ)の神社に詣。②実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より 給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、 竜頭に鍬形打たり。真盛(実盛)討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、 樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす 》
『曾良随行日記』『廿四日 快晴。金沢ヲ立。小春・牧童・乙州、町ハヅレ迄送ル。雲口・一泉・徳子等、野々 市迄送ル。餅・酒等持参。申ノ上尅(さるのじょうこく・午後4時前)、小松ニ着。竹意(ちくい)同道故、近江やト云ニ宿ス(★註1)。北枝随レ之(★註2)。夜中、雨降ル。
★註1 近江屋の所在地は不明
★註2 北枝は金沢から随行してきたが、この後福井まで従って行く。
廿五日 快晴。欲ニ小松立一、所衆聞而以ニ北枝一留。③立松寺へ移ル。①多田八幡ヘ詣デヽ、②真(実)盛が甲冑・木曾願書ヲ拝。終テ④山王神主藤井(村)伊豆宅へ行。有レ会。 終而此ニ宿。申ノ刻ヨリ雨降リ、夕方止。夜中、折々降ル。
廿六日 朝止テ巳ノ刻ヨリ風雨甚シ。今日ハ歓生 (かんせい・俳人)へ方へ 被レ招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳、五十句。終 而帰ル。庚申也。
廿七日 快晴。所ノ⑤諏訪宮祭ノ由聞テ詣。巳ノ上刻、立。斧卜(ふぼく)・志挌(しらく)等来テ留トイヘドモ、立。伊豆尽甚持賞ス。八幡ヘノ奉納ノ句有。真(実)盛が句也。予・北枝随レ之。』
↓ 「縣社・多田神社」
↓「芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが三百年前の元禄二年(一六八九年)七月二十五日(九月八日)であった。七月二十七日小松を出発して山中温泉に向かう時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。
あなむざん甲の下のきりぎりす 芭蕉
幾秋か甲にきへぬ髭の霜 曾良
くさずりのうち珍しや秋の風 北枝 」
〇北枝は金沢からここまで付いて来ていたが、何と彼は越前松岡「天龍寺」まで同道する。奥の細道所載の
《物書きて扇引きさく余波(なごり)哉》
の句は、松岡・天龍寺での別れの場面で詠まれた。↓芭蕉句碑
↓《あなむざん甲の下のきりぎりす》
「むざんやな」は推敲の末。
↓宝物館があった。この中に兜や錦の切れがあるようなら是非拝観せねばと思ったが、由緒書きを読むと、それらの現存について触れていない。多分今はない、そう思ったので素通りした。休日で、わざわざ鍵を開けて貰うのも気が引けた。↓ 摂社・松尾神社がある。観察したところ、松尾芭蕉と関係なく、京都の松尾大社からの勧請社だと見受けられた。
〇曾良随行日記によると、芭蕉一行は太田神社に二度参っていることが分かる。
《廿五日(小松到着の翌日) 快晴。‥‥多田八幡へ詣でて真(実の誤記)盛が甲冑・木曾願書を拝す。‥‥》
《廿七日 快晴。‥‥(門人達が来て留めようとするが立つことに)‥八幡(多田八幡のこと)への奉納の句有り。真盛が句也。予・北枝之に随う。》
★ ★ ★
〇小松市・多太神社参道。この参道が由緒深い。前回この神社を訪れたときはこの参道を歩かなかったので再訪。
正面奥が拝殿↓斎藤別当実盛の兜。木曾義仲がこの神社に奉納した。現存するらしい。重文
↓ これは石彫
〇芭蕉句碑 《むざんやな甲のしたのきりぎりす》
↓「松尾芭蕉翁」石像
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