2020年2月19日水曜日

★奥の細道紀行 第289章 敦賀市「天屋玄流居宅跡」

曾良日記』 『十日 ‥‥申ノ中刻(さるのちゅうこく・午後4時)、ツルガヘ帰ル。夜前、出船前、出雲や弥市良(出雲屋弥市郎)(★註1)へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可レ渡之旨申頼預置。‥‥』
★註1 曽良が宿を借りた大和屋と出雲屋は隣同士だった。出船前、曽良は隣の出雲屋弥市郎を尋ねて、金子一両を差し出し、芭蕉翁が来たら渡してくれるよう頼んで預け置いた。芭蕉はこの出雲屋に宿泊する。
十一日 ‥天や(天屋)五郎右衛門(★註2)尋テ、翁へ手紙認、預置。‥‥』
★註2 芭蕉門人で天屋五郎右衛門といい、敦賀の廻船問屋の主人。俳号玄流
↑「天屋玄流旧居跡 元禄二年(1869)、『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた松尾芭蕉は、敦賀滞在の三日目、八月十六日に、最後の歌枕の地、種(いろ、色)の浜に遊びます。色の浜には、芭蕉が敬慕してやまない西行の「汐染むるますほの小貝拾ふとて色の浜とはいふにやあるらん」という一首が残されています。芭蕉を色の浜に案内した人物が『おくのほそ道』に天屋何某と記された室五郎右衛門です。五郎右衛門は玄流の他に点屋水魚とも号し、当時の敦賀の俳壇では中心的な存在であったと考えられます。天屋は代々俳人を輩出しながら、明治期まで北前船主として活躍しており、この地には平成14年まで煉瓦造の洋館が残されていました。玄流は芭蕉のために船を仕立て、食事や酒など心尽くしのもてなしをしたことでしょう。同行した神戸洞哉(等栽)が「その日のあらまし」を記した『色ヶ浜遊記』には、盃にますほ貝を入れて興じる清雅な遊興の様子に続けて次の句が記されています。
《小萩ちれますほの小貝小盃》 」
 旧居跡は漁港の近くにある

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