2020年2月21日金曜日

★奥の細道紀行 第297章 大垣市「大団円むすびの地」

《奥の細道》 《露通(路通の誤記)も此みなと(敦賀湊)まで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人(越智越人・えつじん)も馬をとばせて、如行(近藤如行・じょこう)が家に入集る。前川子(津田前川・ぜんせん)荊口(宮崎荊口・けいこう)父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のもの(芭蕉自身を指す)にあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて 
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ 》
〇大団円結びの地・大垣にとうとう着いた。
「奥の細道むすびの地記念碑」
↓「奥の細道むすびの地 「蛤のふたみに別行秋ぞ」 俳聖松尾芭蕉がこの地で詠んだ俳諧紀行「奥の細道」のむすびの句です。 元禄二年(1869)三月二十七日、江戸深川を出発した芭蕉は、門人曾良とともに奥州から北陸を経て、ここ大垣で「奥の細道」の旅を終えました。九月六日には、俳友の谷木因や近藤如行ら大垣の俳人たちに見送られ、伊勢神宮の遷宮参拝のため、この船町港から桑名へ舟で下りました。
 谷木因俳句道標 ‥‥」
↓水門川
↓「史蹟・奥の細道むすびの地」

↓「大垣船町川湊」 芭蕉が伊勢に旅立ったのはここかららしい。
桑名行きの舟が出ていた
↓ 左・芭蕉翁、右・木因翁の銅像


↓ 芭蕉像
 ↓ 木因像 芭蕉は生涯大垣に四、五回来ている。それは木因が居ればこそ、木因が芭蕉に付けた弟子・門人が居ればこそ。
 ↓「芭蕉翁と木因翁」

↓左・木因句碑、右・芭蕉句碑(蛤塚)
↓ 木因白桜塚 「惜むひげ剃たり窓に夏木立 白桜下木因」
↓ 蛤塚 「い勢にまかりけるをひとの送りければ
蛤のふたみに別行秋ぞ  はせを 」

↓住吉神社
↓住吉灯篭


  
↓大垣・奥の細道むすびの地記念館


 ↓水門川上流
  ↓「南・いせ(伊勢)‥‥」
 ↓水門川下流方面。南。芭蕉はこの川湊から舟に乗り桑名を目指し伊勢神宮の式年遷宮参拝に向かった。

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