2020年2月17日月曜日

★奥の細道紀行 第280章 武生市①「比那が岳・日野山」

敦 賀
奥の細道》《白根が嶽(白山)かくれて、①比那が嵩(ひながだけ、武生市日野山・越前富士)あらはる。②あさむづの橋(★註1)をわたりて、③玉江の蘆(★註2)は穂に出にけり。鶯の関(★註3)を過て、④湯尾峠(ゆのおとうげ、★註4)を越れば、⑤燧が城(ひうちがじょう、★註5)。かへるやま(帰山、★註6)に初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に⑥宿をもとむ。
 その夜、月殊(ことに)晴たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじ(主)に酒すゝめられて、けい(気比)の明神(★註7)に夜参す。仲哀天皇の御 廟也 。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂霜を敷るがごとし。往昔、遊行二世の上人(★註8)、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟(でいてい。泥濘の誤記かとも)をかは(乾)かせて、参詣往来の煩なし。古例今にた えず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを「遊行の砂持(★註9)と申侍る」と、亭主のかたりける。
月清し遊行のもてる砂の上
十五日、亭主の詞にたがはず雨降 。
名月や北国日和定なき 》 
★註1 福井市浅水川にかかる橋で歌枕。
「朝むずの橋はしのびてわたれどもとどろとどろとなるぞわびしき」(『方角抄』)など。
★註2 福井市花堂の虚空蔵川にある橋で、葦についての歌枕。
「夏かりの玉江の蘆をふみしだきむれ居る鳥のたつ空ぞなき」(重行『後拾遺集』)
★註3 福井県南条郡南越前町湯尾にあった歌枕。
「鶯の啼つる声にしきられて行もやられぬ関の原哉」(『方角抄』)
★註4 義経の古戦場。『奥細道菅菰抄』によれば、「湯尾峠はわづかなる山にて、頂に茶店三四軒あり。何れも孫嫡子御茶屋と暖簾に記して、疱瘡の守りを出だす。いにしへ此の茶店の主疱瘡神と約して、其の子孫なるものはもがさのうれへなしと言ひ伝ふ。孫嫡子とは其の子孫の嫡家といふことなるべし」とある。
★註5 南越前町今庄にある木曽義仲が作った城。
★註6 南越前町湯尾にある雁にかかる歌枕。
「たちわたる霞へだてて帰る山来てもとまらぬ春のかりがね」(入道二品親王性助『続拾遺集』)「雁がねの花飛びこえてかへる山霞もみねにのぼるもの哉」(『方角抄』)
★註7 14
仲哀天皇の行宮(あんぐう)の跡と言い伝えられる。若狭国の一の宮
仲哀天皇の御廟也:<ちゅうあいてんのうのごびょうなり>と読む。仲哀天皇第14代という。
★註8 遊行一世の上人は一遍上人のこと。二世は他阿弥陀仏上人または他阿上人。
★註9 他阿上人の古事にならってその後も代々の時宗の上人はここに来るたびに砂や石を社頭の前後左右に運び敷き詰めることがならわしになっていたという。それゆえ参詣人は土足で参内せず必ず社前の木靴に履き替えて参詣したという。
〇等(洞)栽は、福井から敦賀まで芭蕉に同行した。敦賀には大垣から門人・俳友らが迎えに来た。芭蕉の心細い独り旅は、松岡→永平寺→福井の間だけに終わった。
〇「比那が」は、武生と南条の間にある日野山のこと。越前富士。
 ↓武生市街から見た日野山

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