2019年6月3日月曜日

★奥の細道紀行 第2章 ②採茶庵(さいとあん)

〇東京江東区深川「採茶庵(さいとあん)」を探訪する。そここそ、芭蕉が奥の細道の旅に出るため仙台掘川(せんだいぼりがわ)に舟を浮かべ隅田川に出て千住宿に向かったという本当の出発地。
〇芭蕉が江戸深川で永らく住んだ芭蕉庵は、奥の細道の旅の最終出発地点ではない。芭蕉庵は出発間近に人手に渡った。芭蕉庵を処分して数か月後に芭蕉は奥の細道の旅に出る。その最後の数か月間を過ごしたのがこれから紹介する「採茶庵」。この庵は、芭蕉の門人「杉風(さんぷう)」の別宅。杉風は裕福な商人だった。
こういう次第なので採茶庵を探訪しなければ、奥の細道紀行は始まらない。それで採茶庵を探訪した。
探訪地を予め研究してきたので割と簡単に採茶庵を発見。駐車場探しの方が一苦労。
「採茶庵跡」

↑解説板より。「採茶庵跡 ~奥の細道はここから~
採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。‥‥‥家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、『常盤屋句合』『隅田川紀行』などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である随夢の遺言状に「元木場平野町北角」と書かれています。平野町は、海辺橋南詰から万年町二丁目(深川1-8)をはさんだ一画でした。説明板が建っている海辺橋のたもとより140mほど南西に位置します。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました」
いざ出立せんとする芭蕉像


 ↓「仙台掘川」と書いてある。
仙台藩が蔵屋敷から隅田川までの間に堀を穿ち水運に利用したのでこの名がある。芭蕉は採茶庵に横付けした舟をこの堀に浮かべ隅田川に出た。
 ↓「海辺橋」。芭蕉が旅立った時にもこの橋があったように思われるが、安政5(1856)の「本所深川絵図」には明記されている。

遂に芭蕉奥の細道紀行の振出し地点に立った。

0 件のコメント:

コメントを投稿