9日、光明寺ヘ招かれる。昼より夜五つ(午後9時)過ぎ迄にして浄法寺桃雪邸に帰る』
《奥の細道》《修験光明寺と云う有り。そこにまねかれて行者堂を拝す》
《夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉》
↓余瀬地区を行きつ戻りつして修験光明寺跡に到着。
↓右側の鬱蒼とした繁みに分け入り丘に登ると、
あった! 探し求めた芭蕉句碑が。もう夕暮れ近くで画面が暗い。
《夏山に足駄を拝む首途哉 ばせを》
とある。これは光明寺の行者道に安置されていた役の行者小角(えんのぎょうじゃ・おづぬ)の像(隆君註・足駄を履いていたに違いない)を拝し、芭蕉がこれからの長途の安全を祈り、その健脚にあやかろうとして詠んだものであろう。伝えには那須与一宗隆が屋島に出陣する際、山城国伏見の光明山即成院の弥陀仏に武運長久を祈願して、遂に扇の的を射て武名を輝かせることができたという。与一は帰国後文治2年(1186年)余瀬村のこの地に弥陀仏を勧請して、即成山光明寺を建立したという。その後久しく廃絶していたが、永正年間烏山城主那須資実が、近江の大津に住んでいた天台宗の僧無室(元津田八郎五郎)を招聘し、光明寺を再興して修験道に改め、無室は津田源弘と称した。芭蕉が招かれた当時は、第七代津田源光権大僧都で、妻は鹿子畑左内の娘なので翠桃が口添えをしたのであろう。」
↓刻字が鮮明に撮られた句碑の写真(黒羽文化協会発行「おくのほそ道」より引用)
句碑から辺りを見回すとその下に小さな谷間の平地が開けているが、一部畑が見られるだけで御堂のようなものは何もない。
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