2019年6月21日金曜日

★奥の細道紀行 第22章 大渡

曾良随行日記』『四月二日 ‥‥ウラ見ノ滝・ガンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈(那)須・太田原ヘ趣。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡リト云所ヘカゝルト云ドモ、五左衛門、案内ヲ教ヘ、日光ヨリ廿丁程下リ、左ヘノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村へカゝリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リ(里)ニ少シ遠シ。
  ○今市ヨリ大渡ヘ弐リ余。』
芭蕉と曾良は上鉢石宿の亭主「仏(ほとけ)五座衛門」の説に従い、那須黒羽に行く道を次のようにとる。日光山の麓を辿り(日光街道の北側、大谷川(だいやがわ)の北岸)、瀬尾(せのお)で会津西街道に入って北上する。小室という村で道を東にとり(会津西街道と別れ)、大渡(おおわたり)の仮橋で絹川(鬼怒川)を渡る。大渡からは日光北街道。それを東へ東へと進む。船入(ふにゅう)(現在の船生)を経て玉生(たまにゅう)に至り、さらに矢板まで行くと奥州街道に合流する。
会津西街道は今は四車線バイパスに変貌し道路の位置も往年と全く異なり、小室の在所を発見することは難しい。行きつ戻りつしてとにかく何とか会津西街道と別れて大渡に辿り着けた。
↓手前の道はボクが小室から来た道。鬼怒川・大渡の渡し場は右側を下って少し行くとある。だから芭蕉が辿った小室から来る道はもっと右側(南側)にあったはず。
 ↑↓大渡(おおわたり)の交差点
 ↓鬼怒川・大渡の渡し場に架かっている大橋
 ↓大橋の袂に昔からあったような風情の茅葺屋がある

 大橋が架かる前の渡し場時代の名残の遺跡を発見。バス停だが、よく見ると
 ↓日光市役所を発って、大渡が終点となっている。大橋が無かったからだと思われる。

 ↑↓「立入禁止・駐車禁止」の措置は何故とられているか。ここがバスの回転場だったから 


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