2015年1月30日金曜日

〇芭蕉「奥の細道紀行」北陸路(11)金沢寺町寺院群「成学寺」芭蕉句碑

〇寺町寺院群の成学寺にも芭蕉句碑があるというので尋ねた。

 ↓左手前の石が芭蕉句碑らしい。

 ↓「蕉翁墳」と読める。
 この句碑、風化してもう刻字が読めない。あかあかと日はつれなくも秋の風》と刻してあったらしい。
 ↓「一笑塚」が人知れずあった。

2015年1月29日木曜日

〇芭蕉「奥の細道紀行」北陸路(10)金沢野町願念寺「一笑塚」《塚も動け我が泣く声は秋の風》

↓これは忍者寺。この寺の裏に目指す願念寺がある。


 ↓願念寺


 ↓「松尾芭蕉・小杉一笑ゆかりの寺 願念寺
蕉門の俳人・小杉一笑の菩提寺 境内に一笑塚がある。また、元禄2年(1869)「おくの細道」で来遊した松尾芭蕉が一笑の追悼会に出席し、その死を悼み詠んだ「つかもうごけ我泣く声は秋の風」の句碑もある。‥」
 本堂。寺は小さい。
 ↓右・芭蕉句碑「芭蕉翁来訪地 小杉一笑墓所」
つかもうこけ我泣こえハ秋の風
左の石碑「木一山 願念寺」
 ↓「一笑塚」
 ↓右側に小さく一笑の句が刻んである。
《心から雪うつくしや西の雲》


〇一笑について芭蕉はわざわざ一筆認めている。芭蕉が金沢のくだりで奥の細道に記した文章はたった次の少文だけ。《‥くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。ここに大阪よりかよふ商人、何処(かしょ)と云者有。それが旅宿をともにす。一笑(いつせう)と云ものは、此道にすける名の、ほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年(こぞ)の冬早世したりとて、其兄追善を催すに、
塚も動け我泣声は秋の風
ある草庵にいざなはれて
秋涼し手毎にむけや瓜茄子(うりなすび)
途中吟
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
これだけ。これだけの文章の中に一笑が占める比重はいかにも大きい。芭蕉は金沢で一笑と会えるのを期待していた。

2015年1月28日水曜日

〇芭蕉「奥の細道紀行」北陸路(9)金沢犀川大橋袂の句碑

〇犀川大橋の袂に芭蕉の句碑があるというので探訪。
 足を棒にしてたどり着いたが見つからない。↓青年が居たので芭蕉句碑がどこか知りませんかと訊いてみた。答えは、いやぁボクも知りません。向かいのレストランの人に聞いてみたら。というので向かいに。外にいたウェイトレスの人に聞いたら、ちょっと待ってて下さいと内に引っこんで、また出てきて言うには、↓あの男の人が坐っている傍にある石がそうです。
 ↓芭蕉句碑
 《あかあかと日はつれなくも秋の風


〇《蛍になって帰った宮川三郎軍曹》特攻隊員の母・鳥浜トメさんの語り残した話を再録

2013年8月31日土曜日

〇「特攻の母・鳥濱トメ」さんの語り残した話(一)


「新編・知覧特別攻撃隊」高岡修編より引用。
《宮川三郎軍曹は出撃の前夜、わたしのところにあいさつに来られ、「明日私は沖縄に行き、敵艦をやっつけてくるから、帰ってきたときには、宮川、帰ってきたかと喜んで下さい」と言うので、「どんなにして帰ってくるの?」と尋ねたら、「ホタルになって帰ってくる」と言うのです。そしたら、約束の時間にホタルがやってきたんです。富屋食堂の裏に小川が流れていたんですが、そこに、一匹の大きなホタルがやってきて、白い花にとまったのです。本当に大きなホタルでした。思わず、みんなに、「このホタルは、宮川サブちゃんですよ」と言ったんです。そして、みんなでそのホタルを見ながら「同期の桜」を歌いました。
↓「宮川三郎少尉」第104振武隊・昭和20年6月6日出撃戦死・新潟県・20歳

2015年1月27日火曜日

〇芭蕉「奥の細道紀行」北陸路(8) 兼六園内の句碑

〇兼六園内に芭蕉の句碑がある。もっとも芭蕉は兼六園を訪ねていない。芭蕉愛好者が建てただけのこと。
↓辰巳用水が兼六園に流れ込む口。出羽町方面の小山に掘られている。
 用水は、日本武尊の銅像の脇を疎水となって流れる。
 銅像の近くに松尾芭蕉の句碑が人知れず建っている。
 文字はもう判読できない。
刻された句は、 《あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風

〇芭蕉「奥の細道紀行」北陸路(7) 金沢尾張町「源意庵・立花北枝亭」

〇芭蕉の金沢での動静は、奥の細道の文章は簡潔過ぎてほとんど掴めない。曾良随行日記は要点がメモされているのでほぼ掴める。
〇曾良随行日記《十七日 快晴。翁、源意庵ヘ遊。予、病気故、不ㇾ随。今夜、丑の比ヨリ雨強降テ、暁止。》 ↓源意庵が立花北枝宅だった。源意庵で句会が催された。その時披露された芭蕉の句が
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
だったという。この句は、越後・越中・金沢の道中を移りゆく日の下を進みながら醸成されていったと見られる。
 ↓旧立花北枝亭・現金丸家。尾張町の裏通りにある。

 ↓向かって左隣が「久保市乙剣宮」

2015年1月26日月曜日

〇芭蕉「奥の細道紀行」北陸路(6) 金沢片町旧河原町十字路スクランブル交差点「芭蕉の辻」

北国銀行の前に人知れず「芭蕉の辻」の標石が立っている。



 ↓「元禄二年初秋・焦翁奥の細道途次道蹟」

〇曾良随行日記によると芭蕉の金沢入りのくだりはこうなっている。《十五日‥‥クリカラヲ見テ、未の中刻、金沢ニ着。京や吉兵衛宿かり、竹雀・一笑ヘ通ズ、艮刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去の由》 芭蕉は金沢で一笑に会うのを楽しみにしてきたが、彼は既に死んでいた。芭蕉は彼のために有名な慟哭の句を残す(後で紹介)。
〇《十六日 快晴。巳ノ刻、カゴヲ遣シテ竹雀ヨリ迎、川原町宮竹や喜左衛門方ヘ移ル。段々各来ル。謁ス。》 芭蕉の辻は旧川原町にある。芭蕉と曾良が芭蕉の辻に宿を移したのは、金沢到着二日目だった。宮竹屋喜左衛門という商人の家が旧川原町にありそこに泊まった。
〇芭蕉と曾良は金沢で九泊十日の日を過ごした。一日、宮ノ越(金石)にも足を延ばしている。

2015年1月25日日曜日

〇 DVD「永遠のゼロ」、丸一日の間に四回見た。

四回も見て飽きないか。それが全然飽きない。四回とも新鮮な感覚で見れた。この映画が最高傑作であることは、この事実が証明している。CG技術による空戦や航空母艦の描写が素晴らしい。神風特攻隊を借景に、日本人の精神・日本的人間性を如実に深く抉り出し、それで立派な(全世界に普遍的な)物語を構成して見せてくれたことに心打たれる。この映画を、軍国主義の毒にかぶれた軍国青年達の哀れな犬死的エピソードと見る者の目は、戦後左派的イデオロギーで偏光変色したまま。画面・画像に徹頭徹尾緩みがないことも(これには役者の演技力も与って大)素晴らしさの源泉。
この映画の主題歌・蛍を桑田圭祐が作詞作曲して歌っていることは知らなかった。それを知って、桑田圭祐が大晦日の紅白などのライブ演奏で日本国を茶化す演出をして顰蹙を買ったという話の縁由が分かった気がした(年末年始には流浪の旅のさ中でボクはTVを見ていないんだが)。彼はこの映画の主題歌を歌うことで軍国主義・国家主義に媚びたとチャライ揶揄を受けたのだろう。その右寄りイメージを大晦日の国民的行事で左寄りイメージ行動をとってアンバランスの復元を図ったのだろう。これが彼のバランス感覚。チャラ男だな。

2015年1月24日土曜日

〇芭蕉「奥の細道紀行」北陸路(5) 倶利伽羅峠・源平古戦場

〇旧北国街道を,埴生口から倶利伽羅峠に登ると、幾曲がりかで峠に着く。そこが塔の橋で三叉路になっている。石動・埴生口から来る道、津幡・竹の橋に下る道、そして★口に至る道の合流点。↓塔の橋。源氏方の火牛の計の実施場所だそう。

↓塔の橋付近から見た源氏山。中央彼方。手前右側の谷は地獄谷。火牛の計にかかり平家軍が落下していった谷だそう。
↓「源平古戦場・さるが馬場》の石碑。平家軍の本陣が置かれたという。
↓源平倶利伽羅合戦場


↓塔の橋。火牛が二頭いる。
↓火牛に追われて地獄谷に追い落とされる平家軍。
↓「源平合戦異例の地」石碑

↓猿が馬場。源平供養塔

↓猿が馬場。旧北国街道。
↓峠を津幡側に少し下ると、倶利伽羅不動寺と手向神社がある。
↓芭蕉句碑
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
この句は倶利伽羅峠で詠まれたものではない。越後から金沢の道中で醸成された。

  芭蕉句碑
義仲の寝覚めの山か月悲し
この句も倶利伽羅峠で詠まれたものではない。越前・燧ヶ城で詠まれた。
芭蕉句碑
義仲の寝覚の山か月悲し》 文字が判読し難くなっている。

↓奥の細道全句集の堂。大事な句が欠けている。《しすかさや巌にしみいるせみの声》

〇芭蕉の倶利伽羅越えと関係ある句は、《わせの香や分け入る右は有磯海》だけ。
↓津幡側に下りると、そこは竹橋口。道の駅・源平合戦の郷竹橋口がある。
↓その道の駅の火牛の凄まじいこと。傑作。