《奥の細道》《(封人の家の)あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟(くっきょう)の若者、反脇指(そりわきざし)をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。けふこそ必(かならず)あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじ の云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端(うんたん)につちふる心地して、篠(しの)の中踏分踏分(踏み分け踏み分け)、水をわたり岩に蹶(つまづい)て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、「此みち必不用(ぶよう)の事有。恙(つつが)なうをくり(送り)まいらせて仕合(幸せ)したり」と、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とヾろくのみ也。》
『曾良随行日記』『十七日 快晴。堺田ヲ立。一リ半、笹森関所有。新庄領。関守ハ百姓ニ貢ヲ肴シ置也。サヽ森 、三リ、市野ゝ。小国ト云へカゝレバ廻リ成故、一バネト云山路ヘカヽリ、此所ニ出。堺田ヨリ案内者ニ荷持セ越也。市野 ゝ五六丁行テ関有。最上御代官所也。百姓番也。関ナニトヤラ云村也。正厳・尾花沢ノ間、村有。是、野辺沢ヘ分ル也。正ゴンノ前ニ大夕立ニ逢。昼過、清風へ着、一宿ス。』
〇曾良随行日記の「境田より案内者に荷持たせ越える也」に照らすと、奥の細道(芭蕉)の屈強の若者の部分の文章はいかにも仰々しい。旧道の峠道を頂上まで行ってみたが、芭蕉が言うほどの凄味はない。ここでも文学者芭蕉は劇的創作・脚色をしているのだろう
↓最上町からの車道登り口は残雪で通行止め
↓尾花沢からの登り口に回る。右の舗装道は車道(新道)↓こちらが旧道(車道の左側山裾)
↓車道の峠に到着
〇車を乗り捨てて、なたぎり峠の旧道登り口に入る
〇旧道の峠に到着
↓「山刀伐峠 元禄2年5月17日(新暦7月3日)芭蕉と曾良が越えた山刀伐の頂上がこの辺りであった。往時は原生林が山を覆い、馬の交易や出羽三山参詣の道筋でもあった。
山刀伐峠‥標高470mで北側が急で南側が緩やかな地形が漁師や農民がかぶる「ナタギリ」に似ていることから山刀伐峠と呼ばれるようになったといわれる。
峠の地蔵‥舟形(ふながた)の猿羽根(さるばね)地蔵と兄弟といわれる「子宝地蔵」として信仰が厚く、旧3月、7月の24日が縁日とされている。
子持ち杉‥地蔵堂の傍らに立つ老杉は、幹からひこばえのように枝を伸ばし、村人に「子持ち杉」と呼ばれ、神霊の宿る木と信仰されている。 尾花沢市・最上町」
↓展望台
〇「峠の地蔵(子宝地蔵)」と「子持ち杉」
↓子持ち杉
↓峠の地蔵
↓「奥の細道乃刀伐峠」石碑
↓旧峠道
↓道が見えない
↓最上町方面から登ってくる道はこの森の中にある↓この崖を登って来る
↓崖を登る旧道。ヘアピンになっている