4/30(木)、那須高原SAで目覚めたら07:12。出発したのが07:28。福島県を一気に通過して宮城県の仙台南で下りたのが十時頃か。ここから苦難の一日が始まった。何が苦難か。仙台は空襲で丸焼けになり、戦後、ザックバランな都市計画道路を基盤に以前と全く別の街になっている。芭蕉の通った奥州街道など跡形もない。手掛かりがないのだ。当てもなく右に左にセレナを走らせるばかり。こういう時は危ない、事故を起こす。基点を探し当てねば。「芭蕉の辻」を探すことに。芭蕉と曾良はこの辻に在った旅籠・大崎庄左衛門方に三泊して仙台市内のあちこちを探訪した。最後は勘で辻を引き当てた。辻の案内石碑を読んで呆れた。松尾芭蕉の事績には一言も触れず、昔この辻に芭蕉の木が生えていたので「芭蕉の辻」と呼ばれたんだそう。すると何かい、「芭蕉の辻」に・松尾芭蕉が偶然泊ることになっただけというんかい。そいつは話がマズ過ぎないかい。とにかく芭蕉が仙台で泊った旅籠がこの辺りにあったということは分かったが、都市計画でできた交差点だから何の感激もない。が、仙台で芭蕉が探訪した地点を探し当てるゲームのよすがとはなった。以下、次々に辿り着いた芭蕉ゆかりの地を発見順に列挙。
〇宮城野の萩で有名な「宮城野」。何と今は楽天イーグルスのホームグランド球場等の運動公園になっていた。田中将ヒロはここで24勝無敗の記録を残してメジャーリーグに行ったんだと無性に感激。
〇宮城野の近くで陸奥国分寺跡・「薬師堂」。
〇薬師堂境内もその一部と云える・歌枕「木の下」の森。今は「木の下公園」。
〇「榴岡(つつじがおか)天満宮」
〇「仙台東照宮」
〇「亀岡(かめがおか)八幡神社」。空襲で焼かれたまま昔の面影はまるでない。奇跡的偶然が重なって発見できた。いや、恐るべき執念の為せる業かな。
この後は塩竈街道での仕事となる。
△「奥の細道」と云う細道、「十符の菅」を産する谷には確かに辿り着いたはずなんだが、細道は四車線の産業道路になっている有様ではどうにもならない。
夕暮れ近くになってから、本日のメインエベント、「多賀城碑」「壺の碑(つぼのいしぶみ)」に挑戦した。
〇「壺の碑」には素直に逢えた。夕陽が沈むのを見ながら多賀城跡も見分。芭蕉はこの「多賀城碑」を歌枕の「壺の碑」と素直に受け留めて・紀行文《奥の細道》の中でも逢えた感動を劇的に述べている。が、事はそう単純ではない。歌枕の「壺の碑」は別の所にあるという説が有力。だがそれなら歌枕の「壺の碑」は何処にあるのかをその説は示せているかと云うと奥歯に物が挟まる。
明日のメインエベントは塩竈神社。が、神社に行く前に、塩竈・仙台間にまだ芭蕉が探訪した歌枕が幾つか手つかずに残ったままなのでそれを探し当てることから始めねばならない。こんな調子では、今度の春の流浪の旅だけでは決着がつきそうにない。