〇不破の関守邸跡から中山道を数百メートル西に下ると、壬申の乱の決戦場・藤古川がある。
↑「この川を古くは関の藤川と称し、壬申の乱には川を挟んで東が天武天皇軍、西側には弘文天皇軍が陣しそこの地区民は銘々の軍を支援したので、戦後東の松尾地区は天武天皇を祭って井上神社と号し、川西の藤下、山中地区では弘文天皇を祭って氏神とし、現在に及んでいる。」↓上流を見る。向って右岸に天武天皇(大海人皇子)軍、左岸に弘文天皇(大友皇子)軍が陣した。
↓下流を見る。
↓「関の藤川(藤古川) この川は伊吹山麓に源を発し、関所の傍を流れているところから、関の藤川と呼ばれていました。壬申の乱(672)では、両軍がこの川を挟んでの開戦。更に関ケ原合戦では、大谷吉継が上流右岸に布陣するなど、この辺りは軍事上要害の地でした。またこの川は古来より歌枕として、多くの歌人に知られ、数知れないほどの詩歌が詠まれたことが、世に知られています。」