2010年6月30日水曜日

6/27(日)、敦賀・金ヶ﨑城址「金崎宮」

石段を登ると

金崎宮の一の鳥居

石段の途中にある「愛宕神社」


金崎宮の二の鳥居

手水舎

神楽殿


朝倉神社

拝所

本殿

摂社「絹掛神社」



金ヶ﨑城址の石碑。絹掛神社の傍に建つ


《金崎宮》由緒
延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられたが、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、尊良親王・恒良親王を奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀(つるが)に着き、氣比神宮(けひじんぐう)の大宮司氣比氏治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。一方足利尊氏は高師泰(こうのもろやす)を総大将として兵六万余もって陸海より金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、杣山城(そまやまじょう)の瓜生保、里見時成等兵五千余も金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、保、時成等戦死、3月6日遂に落城、尊良親王は新田義顕(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に亡くなられた。尊良親王御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月13日毒薬を盛られて亡くなられた。御年15歳であったという。明治の御代に至り、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、明治23年9月尊良親王を御祭神とし、宮号を金崎宮として官幣中社に加列せらるる旨仰出された。同25年11月には恒良親王を本宮に合祀され、同26年5月5日勅使参向せしめられ鎮座祭及び奉告祭を執行、翌6、7日両日に奉祝祭を執行し、以来毎年6日をもって例祭日と定められた。しかし、同36年3月、町内よりの出火により本殿以下三棟を焼失、日露戦争後の同39年4月に正還宮再建されたが、この時御本殿は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた。
この山を尾根伝いに歩いた




左端が金ヶ﨑山

山城の模型。金ヶ﨑城


天筒山城

6/27(日)、敦賀「金ヶ﨑城址」登山

金ヶ﨑城址は真下の敦賀港から何度も見分した。今日は山上に立つことに。登り口に来て案内図を見て初めて分かったんだが、城跡の範域は実ははっきりしない。城のある山は、天筒山(てんづつやま)171m が主峰で、そこから尾根が岬に向かって延びていて海に臨む辺りに金ヶ﨑山86m がある。金ヶ﨑山には「金崎宮(かねさきぐう)」が鎮座していてその方面から登れば神社の石段を上がるだけのことだったんだが、無知で反対側の天筒山の登山道に取りついたものだから心臓に病を持つ身には酷なことに。

天筒山の中腹に鳥居があった。一の鳥居

二の鳥居

三の鳥居

神名は「山の神」。そのまま(゜o゜)

四の鳥居まである

この気持ち悪い生き物は?

頭の形を見ると蛭(ひる)ではないか。こんな細長い蛭に吸い付かれる動物っているのか。

天筒山の山頂から敦賀港を眺める

山頂風景


見張り台

金ヶ﨑山へ


一の木戸の堀切


二の木戸の堀切

金崎宮へ

金ヶ﨑城址の石碑。この碑は、金崎宮の境内に建っている

敦賀「気比神宮」(二)