2013年3月29日金曜日

〇白峯展望台。香川県坂出市

香川県坂出市。瀬戸中央大橋が展望できる。白峯寺・白峯御陵の近くで。


〇「白峯陵(しろみねのみささぎ)」。崇徳上皇の墓。西行法師の鎮魂旅行。

「西行法師のみち」の石碑。
〇崇徳上皇「思ひやれ都はるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを」
〇西行法師「よしや君 昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」
 白峯寺の門前から下って行く。西行は山裾の青海神社から白峯陵まで登って来た。

 石段を昇ると、そこが御陵。



 〇崇徳上皇「鳴けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす」
 御陵から瀬戸中央大橋が見える。

2013年3月28日木曜日

〇「少子高齢化」という言葉は間違っている。

「少子」と「高齢化」を同じ根源現象であるかのように安直に繋げて表現してはならない。それでは日本国が置かれている本当の深刻な状態を認識できない。
高齢化問題は放っておけばみんな死んでいって自然に解消する。大問題なのは団塊の世代の高齢化の高波だが、これは一時期の問題。高波をやり過ごせば、あとは自然の老死問題に落ち着く。高齢者・老人は死んで自然なのだ。高齢者が死んでいって何の問題が発生しようか。何を隠そうボクも団塊の世代なんだが、いまさら騒いでも仕様がない。
少子化問題は放っておけば亡国に時間の問題で行き着く。日本人女性一人の生む新生児が今の時点で1,37人だそう。それでは日本国民が半減する時期は目に見えている。半減期を越すと危ないと僕は思っている。次の半減期を拱手して迎えると人口は四分の一。復元力が失われる。亡国の民。日本が如何に亡国の道を辿っているかは次の恐るべき事実で明らか。今学校の児童・生徒の男女比は何処の学校のどのクラスでも男が有意味に上回っている。人類史では女の比率が常に上回ってきた。およそ自然界の生物の雌雄比は雌の比率が上に決まっている。これは当たり前で、男が一万人いても子供は一人も生めない。男は精子をばら撒くだけの役割だから、理屈的には生殖能力の強い雄が一匹おれば人類の種族保存に事欠かない。女が一万人いれば、一人の女が二人の子を生めば二万人の人口が維持されそのうちの半分以上は女だから一万人以上の女がまた一人で二人以上の子供を生んで‥‥以下同様で最小限人類は存続する。それが今何たることか、人為的に女の比率が半分未満に落としめられている。医学的にだ。男の胎児は生かし、女の胎児は葬る。日本医師会が大声で国民を煽る問題はすべて煎じ詰めれば診療報酬減少に繋がることに反対すること。大自然の摂理に反した・この亡国の民化・女の子殺しに黒い手を有料で貸している悪徳に対し憤怒してみせろ(`´)自浄して見せろ。如何なる理由をこね回しても、女子が男子の出生数を常に有意味に下回る現実の作出を合理化することは不可。

〇亡国の民。能登地方の人口は30年後には半減。

これは、今日の北国新聞に載っていた表。
石川県の人口は30年後には83.3%に減少して974,370名になる。
奥能登地域(珠洲市・輪島市・能登町・穴水町)は完全に半減して75,458人が36,889となる。
七尾市を見ると57,900人が30年後には35,880人となる。2010年を100とした指数は62。この分で行くとさらに30年後(2070年)には22,2456人。七尾市がこの有様では能登地方は浮かばれまい。主産業は官公庁と介護施設、あとは地場で細々と残る水産業とその関連産業、農林業、伝統工芸、醸造業くらいだろう。法曹人口増大化の煽りを食って中央から新人弁護士が地方に溢れ出し、その余波が遂に七尾市にまで及んできて一気に弁護士事務所数4、弁護士数7名になった。ボクが若い頃、能登地方全域でただ独りの弁護士として走り回ったことが昨日の夢の様。ボクはプライドだけを食っていても弁護士として生き延びて来れた。しかしこれからの若い連中はプライドを食って生きるというわけにいかない。もう弁護士が七尾に溢れて来ないという保障はない。過当競争の世界が待っているだろう。ボクは断言する。食えない弁護士が七尾にも出てくる。
ボクは好い時代を生きたのだろう。人口が減少する国が好い国であるはずがない。人口減少=経済衰退なのだ。日本国は人口半減の道程に入っている。半減までは必然的に行くだろう。国民は亡国の民化する。本当の亡国の民となるかどうかは半減の時までに決まる。その時までに歯止めがかからなければ半減の半減期に嵌る。そこまで日本人は愚かでないとボクは思っているが、果たしてどんなものか。
因みに今の人口の半分の半分は3,000万人だが、これは江戸時代260年間ほぼ変わらなかった当時の人口。飛鳥時代は500万人、奈良時代は700万人、平安時代は1,200万人と推測されている。日本の人口増加が飛躍した第一期は鎌倉・室町・戦国時代。武士=武装農民が政治の中心に躍り出た。生産力が飛躍した。第二期は明治以降。

〇四国88札所霊場巡り、第81番・香川県坂出市「白峯寺(しろみねじ)」


白峯寺の歴史・由来

青峯、黄峯、赤峯、白峯、黒峯の5色山のうち、白峯にある静かな古刹。弘法大師と大師の妹の子と言われる智証大師が創建されました。弘仁6年、白峯山の山頂に、如意宝珠を埋め井戸を掘り、衆生済度を祈願に堂宇を建立しました。後に智証大師は、山頂できらめく光を見つけて登頂。山の神である白峯大権現の神託を受け、霊木で千手観音像を彫造し、これを本尊にしたと伝えられます。
白峯という、まろやかな響きを持つこの寺には、有名な物語が二つあります。
「啼けばきく きけば都の恋しきに この里過ぎよ山ほととぎす」これは保元の乱で破れ讃岐へ流された崇徳上皇の句です(★隆君註、これは「句」ではない、歌)。都へ帰りたいという思いが叶わぬまま寂しくこの地で亡くなられました。三年後、上皇と親しかった西行法師が詣でた話は上田秋成作「雨月物語」の伝説で有名です。その後も都では異変が相次いだため、後小松帝は上皇の霊を祀る法華堂に「頓証寺殿」の勅額を奉納。また、悲話を伝える玉章木(たまずさのき)も佇んでいます。
また白峯山には心優しい相模坊という天狗が住んでいると伝えられています。ある夕方、小僧さんが木綿豆腐を買いに出かけたところ、突然、何者かに背中を押され、空を飛ぶような感覚になりました。そして次の瞬間、田舎では見ることない上等の絹豆腐を受け取り元の場所に立っていました。これは、夕方買い物に走る小僧さんを気の毒に思い相模坊天狗が助けてあげたと語り継がれています。
「西行法師のみち」。白峯寺の門の近く、左に下る坂道がある。崇徳上皇の鎮魂の為に西行が讃岐を訪れた時に御陵まで登って来た道がある。
〇崇徳上皇・辞世歌「思ひやれ都はるかに沖つなみ 立ちへだてたる心細さを」
〇西行法師・鎮魂歌「よしや君 昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」
七棟門
正面に護摩堂
Datumさん、この龍はどうですかぁ。
護摩堂前を左折すると、頓証寺殿の神門がある。


御小松天皇の勅額。国宝らしい。
神門を潜ると正面に頓証寺殿。崇徳上皇の霊を鎮魂する法華堂らしい。文殊菩薩も祀っている。後日考察してみると、この拝殿の裏手に「白峯御陵」が位置している。


薬師堂・金堂

行者堂。薬師堂とワンセットで同じ高さの境内にある。


本堂。本尊は千手観世音菩薩。

本堂・左手に大師堂。

本堂の前にかいづかいぶきの古木。
本堂左側奥に「阿弥陀堂」

手前から大師堂・本堂、見えにくいが奥に阿弥陀堂。
手前・本堂、奥に阿弥陀堂。
本堂境内から見下ろした行者堂、薬師堂。
〇白峯寺を紹介したら「白峯御陵」も紹介せねばなるまい。

2013年3月26日火曜日

〇四国88札所霊場巡り、第80番・香川県高松市国分寺町「国分寺」

国分寺の歴史・由来

創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が国の特別史蹟。本堂は、全面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたものです。また周辺には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、唐招提寺の金堂に匹敵する規模を思わせます。また、山門の右手には七重の塔の礎石も残っており、現存していれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったといわれています。寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が巨大な十一面千手観音像を刻み、本尊としました。その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が霊場に定めますが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。藩主・生駒氏や松平氏によって再興され、今に至ります。
また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘(ぼんしょう)。当時の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町(ちょう)と引き換えに手に入れます。ところが、城へ運ぼうとすると思ったより重く、ひと苦労。しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行。そして、自身も病に倒れた 一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へ帰りたい」と泣くのです。そこで結局、鐘は国分寺へ返すことに。城に運んだ時と違い、今度はなぜか軽々と運べた上、鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったという伝説が残っています。
国分寺の見どころ
本堂
鎌倉時代、旧講堂後に再興された国の重要文化財。
本尊はケヤキの一本造りの秘仏。
梵鐘
創建当時から残る四国最古の鐘。
興味深い伝説が多いことでも有名。
↓ 仁王門


境内



本堂へ
本堂






↓ 七重の塔の礎石らしい。
大師堂へ
大師堂
百円玉から十円玉への両替機は初めて見た。右端の青いほっそりとした機械は千円札から百円玉への両替機。
大師堂内部