日光二荒山神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日光二荒山神社(にっこうふたあらやまじんじゃ・にっこうふたらさんじんじゃ)は栃木県日光市にある神社。式内社(名神大社)、下野国一宮。社格は国幣中社。正式名称は二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)であるが、宇都宮市の二荒山神社との区別のために鎮座地を冠して日光二荒山神社と呼ばれる。
祭神 日光の三つの山の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神と称し、主祭神としている。三つの山とは、男体山(二荒山、2486メートル)、女峯山(2464メートル)、太郎山(2368メートル)の三山である。この山々は神体山いわゆる神奈備であり、神が鎮まる霊峰として古くから信仰されてきた。この日光の神々は「日光三山」「日光三所大権現」などと呼ばれ、山の名前からもわかる通り、これらの神々は親子と考えられてきた。二荒山大神に現在の神が当てられたのは12世紀頃だと言われる。さらには本地垂迹説によりそれぞれの神に仏が当てられ、現在でも輪王寺ではこれらの仏を祀っている。
男体山 大己貴命(おおなむちのみこと) 千手観音
女峯山 田心姫命(たごりひめのみこと) 阿弥陀如来
太郎山 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) 馬頭観音
歴史 下野国の僧勝道上人(735年 - 817年)が北部山岳地に修行場を求め、大谷川北岸に766年に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建て、それに続いて神護景雲元年(767年)、二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたのが当社の始まりと伝える。この祠は現在の別宮となっている本宮神社である。登頂を志して多くの失敗を重ねたあと、782年には二荒山の到頂に成功し、そこに奥宮を建て、二荒修験の基礎を築いた。その後、神仏習合の霊場として栄えることとなった。社伝などでは勝道が開祖と説明されるが、実際には太郎山神社周辺で古代の祭祀の痕跡をしめす遺跡が見つかっており、相当古くから聖地として信仰の対象になってきたことが分かる。しかし、なぜ祭神が出雲神である一方、下野国の開祖で下毛野氏の祖とされる豊城入彦命でないのか、不自然だとする見解がある。出雲神は尾張国や三河国の民が祭る神であり、徳川家康の威光をもって出雲神を祭神としたということであれば明快であるが、なぜ、下毛野氏の氏寺の修行僧であった開祖・勝道が下毛野氏ゆかりの神々を祀らなかったかについては謎とされる。二荒山(ふたらさん)の名は、諸説あるが観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、のちに弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。空海はその訪れた際に女峯山の神を祀る滝尾神社を建てたという。また、円仁も日光を訪れたとされ、その際に現在輪王寺の本堂となっている三仏堂を建てたといい、この時に日光は天台宗となったという。その後、二荒山の神を本宮神社から少し離れた地に移して社殿を建て、本宮神社には新たに御子神である太郎山の神を祀った。「日光三所」はこのとき新たに建てた現在の本社と本宮神社、そして滝尾神社をさす。なお、延喜式神名帳に名神大社とある「下野国河内郡 二荒山神社」とは旧河内郡池辺郷(現在の宇都宮市)に鎮座する宇都宮二荒山神社である。日光二荒山神社をこの名神大社とする説もあるが、旧日光市は旧都賀郡である。戦国時代には、後北条氏に加担したため、豊臣秀吉に領地を没収され衰退した。江戸時代初め、隣接して徳川家康を祀る日光東照宮が創建され、当社はその地主神として徳川幕府から厚く崇敬を受けた。明治6年の近代社格制度制定時に国幣中社に列格した。第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となった。江戸時代までは神領約70郷という広大な社地を有していた。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400ヘクタールという、伊勢神宮に次ぐ面積となっている。
大猷院の仁王門を出たら直ぐの所に「二荒山神社」の鳥居があった。神門拝殿
神楽殿
親子杉
塀で囲まれた「神苑」に入るには拝観料が要る。神苑の中。日枝神社神輿舎二荒山神社の神輿大国殿朋友神社二荒霊泉御神木高野槇本殿
神苑を出て東照宮に向かった。こちら側にも鳥居。そして楼門
2010年5月12日水曜日
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