三審制は何のためにあるか。建前は、誤審を防ぐためにある。しかし裁判官が官僚化すると三回も裁判を受けて、無実の罪を背負うしかないと観念させる・この世では救済されることはないと諦めさせる機能を果たすことになる。
日本で死刑判決が確定して・再審無罪になった例は五件ある。①免田(めんだ)事件、②財田川(さいたがわ)事件、③島田事件、④松山事件、⑤袴田事件(この事件は未だ再審裁判が始まっていなかったかな。袴田死刑囚は釈放されているんだが)。これだけ。たったこれだけと見るか、こんなにあると見るかは裁判に対する視点の分かれ目。ボクは見る――これ以外にも冤罪はあった。そして無実の死刑囚がこの世で救済されることを諦めて絞首台に昇った。
冤罪の温床は、日本の裁判の自白偏重にあった。日本の裁判官は官僚化すればするほど、次の様な固定観念に従う。被疑者は、拷問でも受ければともかくそうでなければ、無実なのに自己に不利益な自白をするはずがない、まして死刑になる罪で無実なのに自白する筈がない。これでは被告人の、捜査段階でその意に反して強制された自白を裁判官の前で撤回し真実を訴えれば、裁判官なら分ってくれるはずだという思いは通じない。無実の被告人のこの思いを汲み取れる裁判官の如何に少ないことか。日本の裁判官は大概司法官僚化している。
近時、被疑者が如何に容易く捜査官に屈服して虚偽の自白をするものかを端的に証明する事件が相次いだ。
一つは「氷見連続婦女暴行事件」のタイプ。真犯人が・犯人しか知りえない秘密を暴露して出現するこによって冤罪が明らかとなった。
二つは「足利事件」のタイプ。科学的鑑定・特にDNA鑑定の進歩・精密化により真実が明らかにされるようになって冤罪が暴露された。
この二つのタイプの事件が教えることは、被疑者は無実でも不甲斐無くも自白するものだということ。検察官も裁判官も、二つのタイプの事件の存在を肝に銘じて自白というモノの評価に当たるべし。
「東電OL殺人事件・ゴビンダ事件」(←リンク)は、裁判官に二種類あることを端的に示している。司法官僚的裁判官と良心に従って裁判することを優先する裁判官(後者は出世街道から外される例が多い)。この二種が半々に登場するところが味わい深い。この事件については再論を要する。
2014年6月8日日曜日
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