2011年1月22日土曜日

12/30(木)、糸島半島今津「史蹟・元寇防塁」

旅行記がいきなり5、6日間跳ぶ。実は今朝女房が、吾輩が土曜日でブラブラしているのを見て、年末年始旅行の写真を見たいと言い出したので暇にあかせて女房と合流後の部分を優先整理することにした。
旅行記(2010/12/30)。女房とは昨晩19:50にJR小倉駅北口で合流した。女房は一年の仕事を納めて新幹線でやって来た。風邪気味で元気がなかった。昨夜の宿泊地は福岡手前の古賀SA。
夫婦旅行の手始めは元寇防塁探訪。元寇防塁はどうしても確(しか)と観察しておかねばならない遺跡の一つ。子供達が小さい頃一度訪れていたが、あの頃は何せ家族旅行なのでただ通り過ぎるだけの様なもの。以前来たときは未だ史跡公園として整備されていなかった。当時は案内に従い浜辺に出て防塁らしきものを振り返って見ただけ。
西は今津から東は香椎まで防塁の総延長は20kmにも及んだ。
ここは、糸島半島今津
↓「現在地」の右方に「蒙古塚」がある。「街道をゆく」連載中に司馬遼太郎が訪れた所。吾輩は昨日志賀島で「蒙古塚」を発見し合掌してきたが、こんな近くここにもあると知っていたら寄るのだったが。
史蹟・元寇防塁の石碑
ここから防塁の露頭が始まる


そして防塁の両側を掘り下げて、防塁が浮き彫り状態にされている。


文永の役(1274年)の後、鎌倉幕府は元軍の再襲来に備えて防備を固めるため九州の御家人に命じて博多湾一帯に石塁を廻らした。石塁の総延長は西は糸島半島今津から東は海の中道の袂の香椎まで20kmに及んだ。半年間の突貫工事だった。糸島半島今津地区の防塁築造を命じられたのは、薩摩大隅の御家人島津家。今も今津地区に防塁が約3kmにわたって残されている。ここの石塁の構造は、底部幅3m・天端幅2m・高さ3mに石を積み上げ、内部は石や砂で充填するもの。この防塁は劇的な戦略的効果を発揮した。果たして元軍は1281年に再襲来したが(弘安の役)、博多湾岸一円に張り巡らされた石塁に度肝を抜かれ警戒心が過剰となって殆ど上陸しないままに一夜大風に翻弄されて大船団を壊滅させられ、博多湾から消え去った。
「蒙古襲来絵詞」に防塁が描き出されている。絵の舞台は「生の松原」(福岡市西部)

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