根来寺を再訪した。先週末は夕方に辿り着いて国宝・大塔などを拝観できず心残りだったので。桜が満開で、根来寺は桜の名所と聞こえているようで、大渋滞に嵌り込んだ。諦めて空いている車線に入り込んで戻ろうとしたら幾筋も間道があるのに気づいた。その一つに入り込んだら道端に首尾よく駐車できた。歩き出したら直ぐに、前回は暗闇で見た「三部神社」に来た。神仏習合時代の名残りで、根来寺が祀っている神社。
根来寺 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「根来寺(ねごろじ)は和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院。山号を一乗山と称し、一乗山大伝法院根来寺と号する。本尊は大日如来、開山は覚鑁(かくばん、興教大師)である。
平安時代後期の高野山の僧で空海以来の学僧と言われた覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)に高野山内に一堂を建て、伝法院と称したことに始まる。鳥羽上皇は覚鑁に帰依し、荘園を寄進するなど手厚く保護した。2年後の長承元年(1132年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院(みつごんいん)を建立した。さらに2年後の長承3年(1134年)、覚鑁は金剛峯寺座主に就任し、高野山全体を統轄する強大な勢力をもつに至る。覚鑁は当時堕落していた高野山の信仰を建て直し、宗祖・空海の教義を復興しようと努めたが、高野山内の衆徒はこれに反発し、覚鑁一門と反対派は対立しあうようになった。保延6年(1140年)には、覚鑁の住房・密厳院を含む覚鑁一門の寺院が高野山内の反対勢力により焼き討ちされるという事件が発生。覚鑁一門は高野山を下りて、大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移した。さらに新たに円明寺を建て伝法会道場とする。豊福寺・円明寺を中心として院家が建てられ、一山総称としての根来寺が形成される。覚鑁は3年後の康治2年(1143年)、円明寺で没する。それから1世紀以上後の正応元年(1288年)、大伝法院の学頭であった頼瑜は大伝法院の寺籍を根来に移し、この頃から大伝法院の本拠地は高野山から根来(現在地)に移った。室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2700とも)を数え一大宗教都市を形成し、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁した。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。このとき生産地となった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに織田信長、豊臣秀吉に抵抗するが、天正13年(1585年)、秀吉により大師堂、大塔など数棟を残して焼討ちされた。江戸時代には紀州徳川家の庇護のもと一部が復興された。」
三部神社
鳥羽上皇は興教大師に帰依していた。
2010年4月21日水曜日
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