2010年7月7日水曜日

7/3(土)、倶利伽羅古戦場へ、埴生口・義仲進軍路から辿った

先日は倶利伽羅古戦場を平家の進軍路である石川県側の竹橋口から辿った。今日は木曽義仲軍の進撃路である富山県埴生口から辿ることに。埴生口には道の駅があり資料展示場がある。

「義仲 軍勢を進めし道」

埴生口には《埴生八幡神社》がある

参道脇の《木曾義仲像》

神殿への石段

拝殿と神殿

埴生八幡は平家物語に登場する由緒ある社。平家物語は学生時代に通読したが今回読み直してみて驚いた、埴生八幡神社の扱いの大きさに。
【平家物語】(小学館・日本古典文学全集 校注訳・市古貞次より)
《火打合戦》‥‥‥木曾自身は一万余騎で小矢部の渡りを渡り、砥浪山(となみやま)の北のはずれにある羽丹生(はにゅう)に陣を構えた。
《願書(ぐわんじょ)》
木曽義仲の言われたことは、「平家は大軍だから、きっと砥浪山(となみやま)を越えて広い所に出て遭遇戦をしようとしているだろう。しかし遭遇戦は兵力の多少によって勝負が決するもの。大軍の相手を勢いに乗らせてはまずかろう。まず旗手を先に出して源氏の白旗を掲げていたら、平家はこれを見て「あれ、源氏の先陣がやってきたぞ。きっと大軍だろう。無分別に広い所に出て、敵は土地に詳しい者、味方は無案内、取り囲まれてはとてもかなうまい。この山は四方が巌石でできているそうなので、敵が搦め手へ回ることはよもやあるまい。ここでしばらく馬から降りて、馬を休めておこう」と言って、山の中で馬から降りるだろう。その時に義仲がしばらく適当に戦ってその場にとどめ、日の暮れるのを待って平家の大軍を倶利伽羅が谷へ追い落とそうと思っているのだ」と言って、まず白旗三十本を先に出して黒坂の上に立てた。平家はこれを見て義仲の計画通りに「あれ、源氏の先陣がやって来たぞ。きっと大軍だろう。無分別に広い所に出て行くならば、敵は土地に詳しい者、我々は無案内、取り囲まれてはまずいだろう。この山は四方が巌石でできているそうだ。敵が搦め手へ回ることはよもやあるまい。この場所は馬に食わせる草もあり、水の便もよさそうだ。しばらくの間馬から降りてここに留まり馬を休めよう」と言って、砥浪山の山中、猿の馬場という所で馬を下りて足を止めた。木曾は羽丹生に陣を構えて四方をきっと見回すと、夏山の峰の緑の木の間から、朱色の垣根がほのかに見えて、かた削ぎ造りの神社がある。前に鳥居が立っている。木曾殿はこの国の者で土地によく通じている者をお呼びになって「あれは何という神社か。何という神をお祭りしているのか」と訊かれる。その者は「八幡様でいらっしゃいます。とりもなおさずこの土地は八幡様の御領地でございます」と申す。木曾は大変に喜んで、書記として連れておられた大夫房覚明をお呼びになって「義仲は幸運なことに新八幡の御宝殿にお近づきして合戦を行おうとしている。どのようになろうとも今度の戦いには間違いなく勝ってしまうと思われる。そうであるからには、一つには後代のためにも、一つには今の祈祷のためにも、願書を一筆書いて八幡に差し上げたいと思うがどうだろう」とお聞きになる。覚明は「まことにそうなさるのが好かろうと思います」と答えて、馬から降りて書こうとする。覚明のいでたちは、濃い藍色の直垂(ひたたれ)に黒皮縅(くろがわおどし)の鎧を着て、黒漆を塗った太刀を腰につけ、黒ほろの矢を二十四本差した箙(えびら)を背負い、塗籠藤(ぬりごめどう)の弓を脇に挟み、甲を脱いで高紐にかけて背負っていたが、箙から小硯・畳紙を取り出し、木曾殿の御前に畏まって願書を書く。あっぱれ文武二道の達人と見えた。‥‥その木曾の願書で言っていることは『帰命(きみょう)頂礼(ちょうらい)、八幡大菩薩は日本朝廷の主君、代々の天皇の先祖。天皇の位を守るため、人民に利を与えるために、三身のお姿を現し、八幡三所となってこの世に現れておられる。ところが数年前より平相国という者があって日本を支配し万民を苦しめている。これは既に仏法の仇であり王法の敵である。義仲は自身低い身分ではあるが武士の家に生まれて、わずかではあるが父の遺業を継いでいる。かの清盛の暴悪を思うとあれこれ思案ばかりしておられず、運を天に任せて一身を国家に捧げている。義兵を起こして凶悪な者を退けようと試みている。しかしながら源平両家が対峙して戦闘しているにもかかわらず、兵士の間にまだ心を一つにしての戦いに臨む気が出て来ないのでまちまちの心になるのを懼れていたところに、いま一合戦をしようとしている戦場で思いがけず八幡宮を拝した。仏神の感応が熟し神助を得ることは明らかだ。兇徒を誅戮できること疑いがない。歓喜の涙がこぼれて仏神のありがたさを深く心に感じている。とりわけ曾父母の前陸奥守義家朝臣は、身を八幡大菩薩の氏子としてささげ名を八幡太郎と名乗ってより現在までその一門に属する者で八幡大菩薩に帰依しない者はいない。義仲はその子孫として長い間深く信を寄せている。今この大事を起こすのは、たとえて言えば嬰児が貝殻でもって大海の水量を測り、カマキリが斧を振りかざして大車に向かうようなもの。しかしながら国のため君のためにこの事を起こす。家のため身のためにこの事を起こすのではない。私の深い志は在天の神に感じてもらえた。頼もしいことだ、喜ばしいことだ。神前に頭を下げ願うことは、仏神の威光により霊神の力を合わせて勝利を一挙に決め、敵を四方に退散させて下さい。そしてそれで真心をこめた祈りが仏神の御心にかない仏神の思し召しで加護を与えられるならば、まず一つの瑞相をお見せ下さい。寿永二年五月十一日 源義仲敬白』と書いて、自分をはじめとして十三人の上差しの矢の鏑を抜き、願書にとり添えて八幡大菩薩の御宝殿に奉納した。頼もしいことであるなぁ、八幡大菩薩は義仲の無二の真心をはるかに御覧になったのだろうか、雲の中から山鳩が三羽飛んで来て、源氏の白旗の上をひらひらと舞うように飛ぶ。‥‥‥木曾殿は‥‥馬から降りて甲を脱ぎ手を洗い口をすすいで、今この霊鳩を拝まれたという心づかいはまことに頼もしいことであった。
「塔の橋」。平家の将「平行盛」がここまで進出して布陣し源氏軍と対峙した。平氏軍の最前線。


「塔の橋」は古来「馬の背」と呼ばれた険しく狭い尾根筋だった。

塔の橋の側面の低地に、義仲軍の本隊が布陣した

義仲軍の本隊が布陣した丘が見える。源氏軍の本陣は、平家が本陣を布いた「猿が馬場」から細長く伸びて「塔の橋」に至る尾根筋を側面から見る位置にあった。

義仲本陣の位置には源氏の白旗が目印に立てられている。サービス満点


「猿が馬場」。峠の平坦地。平家軍の本陣が置かれ、軍議もなされた





「猿が馬場」は広くない。ここに平家軍の騎馬軍兵7万が布陣するのは不可能。源平双方の軍勢の数は3倍ほどサバが読まれている。

「源平古戦場さるが馬場」の石碑

猿ヶ馬場の松尾芭蕉の句碑


猿ヶ馬場の入口に建つ「火牛の計」の碑

塔の橋から険しい尾根伝いに猿ヶ馬場に突っ込んできたという火牛の銅像、二頭いる。角二本に火松明を括り付けられている。「火牛の計」は中国・戦国時代の斉将・田単の戦法として有名だが、倶利伽羅峠でこの戦法が用いられたかどうかは疑問。地形的には無理がある。平家物語には出て来ない。「源平盛衰記」に現れる。田単の火牛は尻尾に火松明を括り付けられて猛進する。

「源氏ヶ峰」が雨煙の中に霞む。義仲軍の別働隊がこの方面から進軍した。山間(やまあい)の谷が「地獄谷」で、平家軍は夜襲に遭いこの谷に落ちて行った。

猿ヶ馬場の「源平合戦慰霊之地」の石碑

猿ヶ馬場の「源平供養塔」


「為盛塚」。平家にも勇士が多かったことが分る。



旧・北陸道。供養塔の横

旧・北陸道。峠茶屋跡の横

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