2010年8月30日月曜日

8/13(金)、設楽ヶ原(しだらがはら)古戦場

「設楽原の戦」「天正3年(1575)5月8日、武田勝頼は15,000の兵を率いて長篠城を取り囲んだ。城主奥平貞昌は城兵500と共によくこれを防ぎ、14日鳥居勝商の決死的な脱出により、織田・徳川の援軍を得ることに成功した。20日、武田軍は3,000の兵を長篠城の押さえに残し、織田・徳川連合軍38,000の布陣するこの設楽原に進撃した。戦いは5月21日、連吾川を挟み、織田・徳川の鉄砲隊と武田の騎馬隊が壮絶な戦闘を繰り返した。3,000挺の鉄砲と馬防柵の前に武田軍はほとんどの勇将、智将を失う惨敗を喫し、勝頼はわずかの兵に守られて甲州へ落ちのびていった」
初め設楽ヶ原が何処なのかさっぱり見当がつかなかった。それがこの案内板を発見して手掛かりを得た。次々と古戦場を探り当てた。

家康本陣跡には「八剣神社」が鎮まっている

この小山を横断して東に抜けると、設楽原の激戦地・最前線があった


連吾川こそ武田騎馬軍団を苦しめた川、小川。それに架かる柳田橋の上に立って下流・南方を見る。右方に織田徳川連合軍が馬防柵をめぐらし3,000挺の鉄砲を構えて布陣した。左方から武田騎馬軍団が突撃した。連吾川は小川だが、武田軍団の騎馬は立ち竦んだことだろう。

同じく上流・北方を見る。左方に馬防柵がめぐらされ、右方から武田騎馬軍団が突撃したことになる。

激戦地は連吾川に沿って四方面に展開していた。上流・北から順に大宮前激戦地(馬場信房軍突撃)、柳田前激戦地(内藤昌豊軍突撃、勝頼本陣前)、竹広激戦地(山県昌景軍突撃)、最下流・南端が勝楽寺前激戦地。柳田前は戦線中央の最激戦地。武田勝頼本陣の真下。

馬防柵が復原されていた

馬防柵の延長は2km余に及んでいた。決戦の正面となった連吾川沿いに三重の柵を構え、背後の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いにさらに一重の柵を設けて万一に備えていた。



馬防柵は織田式と徳川式で違っていた。これは徳川式。


これが織田式。両軍の様式には、攻め口(出入口)の設け方に違いがあった

名和式「鉄砲構え」「乾堀と馬防柵と銃眼付きの身隠し(土塁)の三段構えだった」

乾堀

土塁

弾正山。この山(岡か)と目の前の連吾川の間に織田徳川連合軍は馬防柵を2km余にわたり張りめぐらせた。当時この山一帯は草刈り場で見通しが好かった、山全体に織田徳川連合軍は旗幟を押し立てていた。この山の裏・西に大宮川が流れその川を渡った先の小山に信長の本陣が布かれた。

馬防柵内から見た武田軍布陣の山々。早朝なので東方の武田軍陣地は逆光の中。
馬場信房軍陣地の山。武田軍はこの山を駆け下って突撃してきた。

武田勝頼本陣・観戦地の山

内藤昌豊軍が陣取った山

山県正景軍が陣取った山


弾正山・最前線を向こう側に下ると大宮川が流れそれを越えると幾つかの小山がある。織田徳川連合軍の大将クラスはそこに陣取った。
岡崎信康の陣。



どちらかの山が茶臼山、織田信長の本陣。羽柴秀吉は信長本陣の直ぐ北に陣取った。


日本史上有数の決戦の一つ「設楽原の戦」は意外なことに、小さな川を挟み、その川が造った狭い谷間で行われたのだった。鉄砲部隊の威力を最大にするよう戦場を指定し限定した信長の軍事的才覚は恐るべきものがある。

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