「埴生護国八幡宮」は七尾市所在「恵寿総合病院」の脳外科部長・埴生知則医師の実家。木曽義仲の時代から(多分そのずっと前から)続く名家。
《いこまいけ高岡》「埴生護国八幡宮(はにゅう ごこく はちまんぐう)は、奈良時代の養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧進したのが始まりとされています。祭神は、八幡大神(産業・文化・勝運の神)です。天平時代には、越中の国司として富山に来た万葉歌人・大伴家持が国家安寧を祈願したと伝えられています。
平安時代の末、1183年5月、木曽義仲(きそ の よしなか、源義仲)が倶利伽羅山で平維盛(たいら の これもり)の大軍と戦を始めるにあたり、埴生の地に陣を構え護国八幡宮で戦勝祈願を行いました。この祈願については、平家物語や源平盛衰記などに語られています。以来、蓮沼城の城主・遊佐氏、武田信玄、佐々成政など多くの戦国武将が篤く埴生護国八幡宮を信仰しました。江戸時代に入ると加賀藩主前田家の祈願社となりました。埴生護国八幡宮の社殿(本殿・釣殿・拝幣殿の三棟)は、桃山期から江戸時代初期に加賀藩の寄進で建てられたもので富山県を代表する神殿建築とされ、国の重要文化財に指定されています。富山県内にある神社関連の国指定文化財としては護国八幡宮の他に、気多神社本殿(高岡市)、白山宮本殿(南砺市)、雄山神社前立社壇本殿(立山町)があります。建物自体は、落ち着いた簡素なもので一見すると「地元のお宮さん」であり国指定重要文化財としてのオーラーは発していないが、地元のお宮さんと見るには規模が大きく、よく整備されている(昭和5年から7年に社殿解体修理を実施)。ガラス張りの雪囲いも無く、本殿の近くまで行けるので建物の見学が容易。」
木曽義仲銅像、巨大
拝殿
本殿
拝殿
裏参道へ
木曽義仲が倶利伽羅古戦場に向けて陣を敷き進発した小矢部の「埴生口」を踏査した。かくなるうえは平家群が辿った津幡の「竹橋口」も踏査し、そして倶利伽羅古戦場を見分せねば。
2010年6月5日土曜日
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