2015年10月31日土曜日

〇10/11(日)佐久市「八幡神社」、郷社。摂社「高良社」が重文。格調高く尊崇篤き神社。

〇布引観音の次に探訪したのが、佐久市の「八幡神社」。摂社の「高良(こうら)神社」の本殿が重文。カーナビの不調法で案内された土地には見渡す限り神社がなかった。ボクはカーナビ画面の地図で八幡神社の名を見つけて行ってみると、果たしてそこが目当ての八幡神社。郷社。それが小規模ながら洗練された立派な神社であったのは意外。高良神社本殿は見事な建築物だった。重文であることに納得。




↓随身門、楼門である。


↑↓掲額には「止戈為武」と書かれている。「武」は「撫」である。その意味するところは、戦を止めさせ治安をよくする、ということ。




↓額殿、あるいは社務所・寄合所。






↓八幡神社拝殿。
↓本殿






↓重文・高良社。摂社である。






↓三つの紋所が見られる。即ち三神が祀られている。
〇これほど格調高い郷社には滅多に参拝できない。古来手厚く祭られてきたことを顕している。好いひと時を過ごせた。
〇リンク先 高良大社・久留米市→http://takashikun.blogspot.jp/2013/09/blog-post_4016.html

2015年10月30日金曜日

〇上野公園「野口英世」銅像、秦始皇帝陵「兵馬俑」

そう言えば上野公園に野口英世の銅像もあった↓。かつては湯川秀樹クラスの科学者(医学者)として持て囃されたこともあった細菌研究者だったが(渡米して黄熱病の病原菌を発見したと大言)、その研究方法は必要十分条件の吟味を怠った思い込みの激しい非科学的なものでそのうち化けの皮が剥がれてしまい、今ではその業績は誰の歯牙にもかけられない。小保方晴子女史の大先輩と見ればよい。少年時代に読んだ伝記と実像実績は全く違う。人格的にも問題の多い人だったそう。
この銅像は撤去されるべきだろう。
↓ボクの目が輝いたのはこの大看板。「始皇帝と大兵馬俑」展。
〇ボクはこれを見るためにまた東京・上野に出てくるかもしれない。2/21まで東京国立博物館でやっている。ついでに寛永寺の残りを探訪すればよい。

〇10/22(木)上野・寛永寺探訪にまたも失敗。

〇寛永寺本体に辿り着いたときはもう午後四時半過ぎ。各伽藍の門扉は既に閉ざされていた。
↓「輪王寺門跡」寛永寺の一部。参詣できないので門扉の隙間から撮影。

 ↓寛永寺・旧本坊表門・重文。
 ↓輪王寺門跡の隣にある「両大師・開山堂」。やはり門扉は閉ざされていた。隙間から撮影。


〇いつの日か三度訪れて、この輪王寺門跡・両大師堂(開山堂)と、ここからかなり離れた所に残っている寛永寺本坊を探訪しなければならない。それで寛永寺探訪は完結する。なお一度目の探訪は、昨夏・奥の細道紀行の旅に江戸深川を振出しに出発したときその途次に寄った。当時寛永寺に対する認識が甘くて、来てみたが歯が立たなかった。成果は全然なかった。すごすごと千住宿に向かった。

2015年10月29日木曜日

〇10/22(木)上野動物園内に取り残された・寛永寺の「五重塔」

〇寛永寺に五重塔があることを知る人は少ない。ましてそれが上野動物園内にあることなど、ほとんど知られていない。ボクの上野公園探索の目的の第一が、この五重塔を発見する事だった。動物園の中に取り残されていることは知っていた。しかし動物園の方面をどう眺めても、五重塔を発見することは不可能に思えた。殆ど諦めて上野東照宮の参道を歩みその奥に至った時、ボクの目に不意に飛び込んできたのが↓この建造物。

 ↓さらに奥に進むと、木立に邪魔されない好いアングルが出現。

 ↓手前の石燈籠は東照宮のモノ。鉄柵の向こうは上野動物園の敷地。即ち、五重塔は動物園の中に建つ。

2015年10月28日水曜日

〇10/22(木)「上野東照宮」

〇明治維新後神仏分離が行われる前は、上野東照宮と寛永寺は習合し一体化していたろう。共に徳川家により造営された社寺だった。
↓この石造大鳥居は重文らしい。





 ↓唐門と拝殿に着いた。共に重文。

 ↓舞殿

 銅燈籠が48基あるそうで、それらは一体として重文。

 ↓唐門と拝殿
 透塀も重文。

 〇拝殿の背後に幣殿と本殿がある。それらも重文。ボクの到着が16:30頃と遅かったために拝観がかなわなかった。拝観は横手から透塀を潜って瑞垣の中に入り拝殿・幣殿・本殿の傍まで近づくことが可能らしい。残念。
↓銅燈籠
〇この東照宮の参道で、ボクの上野公園探訪目的第一位のモノに遭遇する。それは次回に。