2019年7月31日水曜日

★奥の細道紀行 第72章 岩沼市、歌枕「武隈の松」

JR岩沼駅前に松尾芭蕉像が立っている。筆を取り書付を持って一句捻っている。
とうとう歌枕「竹隈の松」までたどり着いた。「竹隈の松」は万葉時代からの歌枕。但し岩沼に現存する松は古代の松の子孫。


↓松の傍に、左から二木の松の解説板、二木の松の木柱碑、歌枕古代歌の石碑が立っている。
↑↓解説板
↑「二木の松(竹隈の松) この松は、陸奥の歌枕の中でもその詠歌の多いことでは屈指の名木である。千余年前、陸奥の国司として着任した藤原元良が植え、以後能因・西行をはじめ多くの歌人に詠まれるようになった。元禄2年5月4日(1689年、現在の6月20日)、この松を訪れた松尾芭蕉は《奥の細道》で《竹隈の松にこそめ覚むる心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなわずとしらる。先ず、能因法師思ひ出づ。往昔(そのかみ)むつのかみにて行し人、此の木を伐りて名取川の橋杭にせられたる事などあればにや、「松は此たび跡もなし」とは詠みたり(末尾参照)。代々、あるは伐り、あるひは植え継ぎなどせしと聞くに、今将(いまはた)、千歳のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍りし。「竹隈の松みせ申せ遅桜(おそざくら)」と、挙白(きょはく。江戸の門人)と云ふものゝ餞別したりければ、》と記して《桜より松は二木を三月越し》の句で結び、《曾良随行日記》には、《岩沼入口ノ左ノ方ニ、竹駒明神ト云う有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ竹隈の松有り。竹がきヲシテ有り。ソノ辺、侍(さむらい)やしき也。》とある。この松は、植え継がれて七代目といわれ、文久2年(1862)植えられたものと伝えられている。」
解説板の右側に、万葉集の古歌が二首、万葉仮名で記されている。

歌枕
〇「うえしときちぎりやしけむたけくまの まつをふたたびあひみつるかな」藤原元良
〇「たけくまのまつはふたきをみやこびと いかゞととわばみきとこたへむ」橘 季通
松の背後に庭園があり、その奥に芭蕉句碑がある。

 芭蕉句碑
桜より松は二木を三月越し
歌枕=武隈の松
西行《枯れにける松なき宿の武隈は みきと云ひても甲斐なからまし》 西行がここを訪れたとき、松は枯れていたらしい。
能因法師《たけくまの松はこのたびあともなし ちとせをへてや我はきつらん》 能因法師が陸奥に再び下った時、松は伐られてなかったらしい。

2019年7月30日火曜日

★奥の細道紀行 第71章 ⑤白石城(白石市)

白石(しろいし)」は《奥の細道笠島の段に登場する。《鐙摺・白石の城(じょう)を過ぎ、笠嶋の郡に入れば、‥‥
曾良随行日記』によれば、旧暦53日の晩、二人は白石宿に泊っている。
↓城山の坂を登る。
↓ 本丸の大手口に着いた
本丸の外から見た天守閣
本丸の大手口
大手門
本丸に建つ天守閣
手前に広い芝生地がある。本丸御殿跡。
大手門と天守閣。他の城郭は一部隅に小櫓があるだけ。

2019年7月29日月曜日

★奥の細道紀行 第70章 白石市「甲冑堂」(田村神社)

現在の福島市から源義経に臣従した佐藤継信・忠信兄弟は忠義の神髄を示して、兄継信は屋島の戦いで義経の身代わりに強弓の前に身を挺して戦死し、弟忠信は吉野山で義経一行の窮地を救って捕えられ京都で自刃して果てた。それを知り深く悲しむ母(姑)を慰めるため、兄弟の嫁二人はそれぞれ夫の甲冑を身に付け夫の凱旋の晴れ姿を母に見せたという。
↑《奥の細道》本文碑。《ふたりの嫁がしるし、まずあわれなり。女なれども、かいがいしき名の、世に聞えつるものかなと、袂をぬらしぬ。》
国道4号線バイパスを行きつ戻りつ探しに探しても「甲冑堂」に至る道は発見できない。もう諦めようとして脇道に入ったら「斎川宿(さいがわじゅく)」の案内が出現。
曾良随行日記』に『さい川(斎川)ヨリ十町程前二、万ギ沼(「馬(ま)牛(ぎ)沼」)・万ギ山有り』とあったが、その通り、馬牛沼から10(1km)程来た所で脇道に入ると「斎川宿」の標識があった。
↓バス停があり、その名も「甲冑堂

↑案内地図まであった。右下に「馬牛沼」、中央やや右手に赤字で「現在地」、その直ぐ右に「甲冑堂」(黄色)、さらに右に「あぶみすり坂」。
「あぶみすり坂」を通り過ぎると、田村神社が出現
拝殿
本殿
これが「甲冑堂
佐藤兄弟二人の嫁の甲冑姿。古いお堂と像は明治時代に放火で焼失したそう。今見るのは昭和になって再建されたもの。
〇以上は2014年に探訪。その時は、甲冑堂内の嫁二人(義経に従事して戦死した佐藤継信・忠信兄弟の嫁)の凛々しい甲冑姿を鮮明に撮影できなかった。それが心残りだったが、昨日2016年8月28日(日)テレビを見ていたらアーカイブス番組「森敦の奥の細道行(2)」に甲冑堂が開かれて内部を撮影させている場面が出てきた。ボクは泡を食ってデジカメを取って来て辛うじて次の画面を撮った。これで十分ではないか。ボクの奥の細道紀行・田村神社「甲冑堂」の章は完成した。


甲冑堂の傍らに「桃隣句碑」が建つ。桃隣は芭蕉の高弟。
 「いくさ()めく二人のよめ()や花あやめ」
曾良随行日記』『‥‥次信(継信)・忠信が妻の御影堂有り。同(53)晩、白石に宿す』


2019年7月25日木曜日

★奥の細道紀行 第69章 ③「鐙壊(あぶみこわ)し」(義経伝説)

ここは宮城県白石市。馬牛沼からほど近い。歌枕「鐙摺石(あぶみすりいし)」を探して、国道4号線バイパスから旧道の枝細道に入る。
〇義経が奥州街道を通ったとき、ここは山合いの狭隘な崖道でせり出した岩で鐙を壊したという。それでその岩を名付けて「鐙摺石(あぶみすりいし)」。
 ここは旧国道4号線(現在県道)らしい。道幅も結構あり鐙を壊すような危ない石はとっくに破砕撤去されている。
 ↓「あぶみすり坂」

★奥の細道紀行 第68章 ②馬牛沼

奥の細道」には「万ギ沼(馬牛沼)」は出てこない。
曾良随行日記」に出て来る。『桑折(こおり)トかいた(貝田)の間二伊達ノ大木戸(国見峠ト云う山有り)ノ場所有り。コスゴウ(越河)トかいた(貝田)トノ間二福嶋領(‥)ト仙台領(‥)トノ堺有り。‥‥さい川(斎川)ヨリ十町程前二、万ギ沼(この沼が「馬(ま)牛(ぎ)沼」)万ギ山有り‥』
↑「馬牛沼 九世紀のはじめ頃、蝦夷征伐に馬を進めてきた征夷大将軍坂上田村麻呂は、この地方にはびこる悪路王や青頭・赤頭など鬼形の者たちに、苦しめられている村人たちのことを知った。そこで、田村麻呂は齋が川で身を清め、鈴鹿明神の助力を得て悪者を退治した。村人はその徳を慕って、祀ったのが田村神社のはじまりと伝えている。この湖畔は、この時の田村将軍の乗馬が沼に落ちて死んだことから馬入沼ともいい、また、沼の中の弧洲が馬に似ているため馬形沼と、さらに、馬首牛身の魚獣が泳ぎ回っていたので馬牛沼と呼ばれたとの伝承がある。この沼は明治30年頃から養鯉場になり、晩秋には名物の「沼乾し」の行事で賑わい、湖中には鯉供養碑が建っている。湖沼の北側の山は馬牛館跡で、伊達宗・晴宗父子争乱の天文年中には、桑折播磨景長が籠って戦ったとの伝承がある。その館下の道は、遠く源義経が鐙を摺ったといわれ鐙摺石(あぶみすりいし、別称あぶみこわし)の難所であり、奥州街道最大の難所であった。」
↓以下「万ギ沼(馬牛沼)
↓背後に見える手前の山が「万ギ山」らしい。沼を周回して背後の山々の中を走り回ってみたが、「万ギ山」(馬牛山)を特定する標示は見当たらなかった。

↑↓「鯉供養」碑

2019年7月24日水曜日

〇「義経記」二種類が到着。アマゾン

河出文庫、高木卓訳
 岩波書店(日本古典文学大系新装版)、岡見正雄校注
アマゾンをつい利用してしまう。小売販売業界はそのうちアマゾンに席巻されその独占状態になるだろう。田舎町では遠からず書店は廃るだろう。アマゾンに太刀打ちできるビジネスモデルの提示構築が必要。

2019年7月23日火曜日

★奥の細道紀行 第67章 ①伊達の大木戸

奥の細道》《(飯坂での)短夜(みじかよ)の空も やうやう明(あく)れば、又旅立ちぬ。猶、夜の余波(なごり)心すゝまず。馬かりて桑折(こおり)の駅に出(いず)る。遥なる行末を かゝえて、斯(かか)る病覚束(おぼつか)なしと いへど、羈旅(きりょ)辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にし()なん、是(これ)天の命なりと、気力聊(いささか)とり直し、路(みち)縦横に踏んで①伊達の大木戸をこす》
曾良随行日記》『三日 雨降る。巳の上剋(午前九時半頃)止む。飯坂を立つ。桑折(こおり)へ二里。‥桑折と「かいた」(貝田)の間に伊達の大木戸(国見峠と云う山有り)の場所有り。「コスゴウ」(越河)と「かいた」(貝田)との間に福嶋領と仙台領との堺有り。‥‥さい川より十町程前に、万ギ沼・万ギ山(今云う「馬牛沼・馬牛山」だろう)有り。その下の道、アブミコブシ(鐙壊し、だろう)と云う岩有り。二町程下りて右の方に次信(継信)・忠信が妻の御影堂有り。同晩、⑤白石に宿す
 以下、①~⑤を探訪する。
 先ず①伊達の大木戸
★第一回目の遠征では「伊達の大木戸」を発見できなかった。国見峠は今も残っているというから、再挑戦を計画している。現地を見分して必ずや報告をしたい。


〇「信長公記」現代語訳、二種類入手。


アマゾンで昨日発注したらもう今日着いた。昨日同じく「義経記」も二種類発注済み。
何故この手の本を入手しようとするかと云うと、《奥の細道紀行》の旅で結構味を占めその轍を踏んで、日本史に残る有難い書物に忠実に信長と義経の歩んだ生涯の道のりを地理的・鑑賞的・記念碑的に再現する紀行文と写真をモノして編集し、大いに自己満足しようと云う訳。既にこの十年、全国的規模で観光鑑賞の旅を実施しほぼ見るべきほどのモノは見てしまったので、もう大旅行の計画が立たなくなったので、《奥の細道紀行》の流儀で広範囲に該当地に奥深く沈潜して、discover Japan の旅を新規に始めようという訳。運転免許を返納するまでのほんのひと時の夢。言っておくけど、ボクは免許を没収されるまでハンドルにしがみつくようなあさましいことはしない。

★奥の細道紀行 第66章 鯖湖湯(芭蕉と曾良は飯坂でこの湯に浸かったらしい)

〇「滝の湯」跡は芭蕉ゆかりの湯ではないという説が有力化している。
↓「永らく、1689年に芭蕉が入浴したのは滝ノ湯であろうと言われていました。その跡地に、1968年、「芭蕉の碑」が建造されました。しかしながら、おくのほそ道の研究が進み、今日、芭蕉と曾良が入ったのは、滝ノ湯ではなく、鯖湖湯あるいは当座湯であるとの見解が有力なっております。20113月」
そこで「鯖湖湯」(★註)も探訪。
★註 飯坂温泉鯖野にある古湯。《奥の細道》佐藤庄司が旧跡の章に地名として出てくる。《佐藤庄司(しょうじ)が旧跡は、左の山際一里半斗(ばかり)に有り。飯塚の里鯖野と聞きて尋ね尋ね行くに、丸山と云うに尋ねあたる。是、庄司が旧館也。

 「鯖湖湯は飯坂温泉発祥の地とされ、元禄2年(1689年)奥の細道の途中飯坂に立ち寄った松尾芭蕉が湯に浸かったと伝えられる名湯です。日本最古の木造建築共同浴場(明治22年建築)で、平成5年に明治を偲ぶ共同浴場として忠実に再現しました。」

 ↓「飯坂温泉発祥之地」
 ↓「芭蕉と曾良・入浴の地」
↓鯖湖神社
鯖湖湯の真ん前に建つ老舗旅館